前田家本大和物語の一考察 : 古寫本に於ける闕字と校合の或場合

先年尊經闍叢刊の一として複製刊行された前田侯爵家所藏の藤原爲家筆大和物語には、その卷尾に

弘長元年十二月比以家本令書寫之 同二年校合之     六十五老比丘融覺

と融覺〈爲家の法名〉の奧書があり、更に中院通村が自筆で、

此一册者契納言爲家〈法名/融覺〉眞跡也以家本書寫之由見奧書抑此物語正本不留布當世仍備 仙洞御覽畢 尤可謂絶代之至寶者也     正二位源通村(花押)

と識語を加へてゐて、古來爲家の眞蹟であると信ぜられてきたものであるが、その書風についてつぶさに檢してみると、卷首と卷尾とでは決して同一人の筆蹟とは認められず、極めて酷似した兩筆からなつてゐるものと考へられる。これは既に同複製本に副へられた池田龜鑑氏稿の解説にも指摘されてゐる所であつて、何人にも明らかな所であらう。而してその何れが爲家筆かといふに、老熟平淡の書風を示せる卷首の筆蹟を以てそれに擬すべきこと、これも右解説に述べる如くであらうと思はれる。

所が從來その筆者については異論があつた。同じ池田龜鑑氏の稿になる傳爲氏筆大和物語〈古文學秘籍複製會本〉の解説には前田家本について、「右通村の奧書の如く、前田家本は果して爲家の眞跡であるかどうかは不明である。恐らく彼の眞跡ではないであらう。又融覺の奧書も、果して彼自身の書く所であるか否か、疑問の餘地があるかも知れない。しかしながら、少くとも、彼の時代に書かれたものであるべきことについては明かな證擦がある。即ち前田家藏の定家自筆と稱せられる源氏花散里・柏木の兩册、松岡三次氏藏の金槐集等に於ける定家自筆以外の箇所の書風とほとんど全く同一であり、或いは、全然同一人の書寫する所ではないかと思はれる位であるからである。」と述べてやゝ否定説に傾き、鈴木知太郎氏〈「文學」第二卷第五號所收「大和物語諸本の系統」三二頁〉も二つほどの理由によつて本文及び奧書共に爲家自筆とは必ずしも認め難いとされてゐる。然しこれらはいづれも誤解に基くものであらう。かの定家所傳の金槐集に於ける書繼ぎの筆蹟とこの前田家本大和物語の筆蹟との兩者についてその字形及び線條を比するに、一は豊滿他は枯痩であつて到底類似の點を認め得ず、明かに異筆と斷ぜられるべきものである

爲家否定説の根擦とする所はかくして全く從ひ得ないのみならず、むしろ、弘長の融覺奧書及び卷首の筆蹟は根津氏所藏の文應元年融覺自筆古今和歌集〈土橋家舊藏〉や中山侯欝家舊藏の文永九年融覺自筆古今和歌集の奧書と全く同筆と斷ずべきもの、五島慶太氏所藏の三首和歌懷紙や、京都里見忠三郎氏所藏の融覺自筆書状などとも著しく氣風の類似する所であつて、これが自筆たるを疑ふべき點は毫も存しないかに思はれる。複製本解説がほゞ爲家説に落着いてゐるのを妥當とすべきであらう。

次に前田家本における異筆の書繼ぎの部分についてみるに、その筆蹟は爲家の體に模して遙かに及ばざるものがある。恐らく老後の爲家に近侍せし女性と考ふべき點から、解説には阿佛を以てこれにあてる假説を述べてあるが、それも疑はしいであらう。その線條甚だしく纖細稚拙、行筆の遲滯逡巡せる貌は、當時相當の年輩にあつた阿佛の筆とは全く考へられぬ所であつて、その線條の幼く未だ習熟せざる點や、やゝ料紙負けせる如き氣分の感ぜられる點より見れば、恐らくは未だ廿歳前後の若き女性の手になるものと見るべきであらう。阿佛の眞蹟は世に流布するもの乏しいが、嘗て井上侯爵家から出た自筆の書状や其他署名ある他の一二の筆蹟に比してみても、これが阿佛に非ざる事はほゞ言ひ得る所である。

ともあれ、前田家本大和物語は、爲家と書繼ぎの女筆との兩筆から成つてゐる事に疑問はないと思ふ。たゞその兩筆の判別は、書風の酷似してゐる爲に甚だ困難であるが、解説には「つぶさにこれを檢するに、卷頭の六枚は同一人の筆なるべく『先坊云々』以下は、別人の筆の如く看取せられる。即ち本書は六枚の終を堺として、前後各筆者を異にすると認めざるを得ない」とあつて、六枚の裏終までを爲家の筆と考へ、以下はすべて書繼の筆と考へてゐるのである。然しながら複製本について熟覽すれば、それにも若干の修正を要求せねばならぬであらう。墨色の相異は全く窺ひ得ない爲に、單に線條の質と、字形・書癖等によつて判するより他ないが、六枚裏の第五・六行の二行は「の」・「な」・「た」・「か」・「あ」等の諸字から見ても到底爲家のものとは受取れない。兩筆の境界は當然第六枚裏第四行と第五行との間に置くべきものと信ぜられるのであるが、然しながら第七枚以下に於いては爲家筆を全く有しないかといふに、さうではないのである。第四十三枚裏・四十四枚表及び同裏第三行までの二頁餘はその老熟の筆明かに爲家のものと判ずべきであつて、この外にも部分的には多數の爲家筆を交へてゐるものと考へられる。今、上述の部分は略して、他に自分の調査によつて爲家筆と判斷せるものを摘記すれば左の如くである。〈一行全部が爲家筆の場合は(全行)と括弧を付して擧げ、他は爲家筆と認むる文字のみを出せり。やゝ疑問のものには(?)を加へた。尚丁數は墨付の部より數へたもので、白紙は勘定に入れない。〉

〔丁〕〔行〕〔語句〕〔丁〕〔行〕〔語句〕
七オ3みや十オ4桃園
56(全行)
7(全行)十一オ7故源大納言の君
十三ウ6北方(?)7陽成院(?)
十九オ4帝(?)十九ウ4覺といふ法師の
廿ニオ7故式部卿(?)廿三オ4君(?)
6亭子廿三ウ7亭子
卅七オ3閑院五十ウ3中納言(?)
五十二オ4彈正の八十一ウ5大膳
77後守さねあきら信明 公忠朝臣男

これらは尚一應原本についてその墨色の點からも確めてみる必要があるが、先づ爲家の筆と斷すべきものかと思はれる。中について十枚目表の二行餘りは、書繼ぎ筆者の後を承けて爲家が更に筆を續けたもので、

桃園兵部卿宮うせ給て御はて九月つこ」もりにしたまひけるにとしこかの宮」のきたのかたにたてまつりけるにとし」こかのきたのかたにたてまつりける(十枚目表の第四行より同面の末尾まで。」は行の變り目、傍線はみせけちの部分。)

とあるうち「宮の」以下三十四字のみを書寫し、同じ丁の裏面からは又書繼ぎ筆者の筆に變つてゐるのである。恐らくは爲家が中途から筆を執つたものの、文意を案じなかつた爲に目移りの誤寫を犯し、直ちに書寫を厭うて筆を擲つたものかと想像されて興味が深い。他はすべて書繼ぎの筆者が故意に設けておいた空自の個所に、爲家が後に填字したものであることは、その配字の状からも容易に察せられる。而して前田家本に於いて、途に填字されることなく空白のまゝに殘された部分が現に見出される事からも、その事は又裏書きされるであらう。解説に「故意に空白を殘した部分」として十一個所を指摘してゐるが、そのうち、他本にあつても本文のない七個所は別として〈この七個所は爲家本の底本となつた家本に於いても既に空白となり缺けてゐたものと思はれる。〉他の

八オ 一行 うせたまひにけれはノ次約二字、他本「大輔」
三〇オ 五行 ある人のおほむノ次約二字、他本「驗者」
三六ウ 七行 かねもりノ上約四字、他本「越前權守」
五八ウ 一行 のきみノ上約二字、他本「修理」

とある四個所の空白は、爲家が填字すべく故意に空白を設けたまゝ然も填字の際に不注意にも見落されたものと解すべきであらう。解説が凡べての空白を一樣に取扱つて、爲家本の底本たる「家本」に已に同樣の空白が存してゐたか、又は爲家等が何かの考へで――即ち原本に不審な點がありそのまゝ從ひ得なかつたか、或は後に考勘の文句を記入するつもりで――特に餘白を殘しておいたのかも知れぬと述べてゐられるが、この本には他にも爲家の填字の例ある事を思へば、ほゞ既述の如く考へて誤りあるまいと思ふのである。

かくの如く前田家本大和物語にあつては、卷初並びに中間の一部を爲家自ら書寫し、他は多く女筆に書繼がしめて間々數字を填字してゐる事實が認められるのである。以下この點について暫く他に類例をも求め、その意味について考へてみたいと思ふのである。

  1. (一)前田家藏の源氏物語花散里・柏木兩帖と此本とは全く同筆であること、(二)本文と融覺の奧書とは別筆かと思はれ、且、奧書の存する紙葉にはその奧書以前に何等かの文字があつたのな削去つてその上に書かれてあるが、尚空白の紙も後にあるのからみると、これはやはり後人の爲にする業で、爲家の奧書に擬する爲に原文字を抹削したのであらうと思はれること。(以上取意)
  2. 鈴木氏が(二)の理由とされる所は、原本についてみれば誤解なる事明白である。本文卷初の部分と奧書とは決して別筆ではないし、又、奧書のある紙葉については、融覺の奧書と磨滅に近い文字とは決して同面に書寫されてゐず、氏のいはれる如き事實は認められない。この磨滅した文字は「法印□巖(花押)」と判讀され、この書の原所持者の署名と思しい。融覺の奧書の裏面左下隅に存し、その字體から見ても室町期以降のものである。

全數卷に亙る大部の書にあつてはいはすもがな、一卷の書册中にあつてもそれが二人乃至數人の合筆よりなつてゐる例は、平安朝以來の日記・記録類や經卷佛奧等の古鈔本に於いて必すしも僅少ではない。今假名文の場合についてみるに、後世の修補其の他の場合を除き、同時代の數人の合意によつて合筆された例としては、解説に松平家舊藏傳行成筆和漢朗詠集(伊豫切)〈私云、上卷前半は御物粘葉裝本朗詠集と同蹟であるが、第三十三丁裏秋夜の半ばよりはそれを學んだ人の筆と思はれる。〉前田家藏傳公任筆入道右大臣集を始め、松岡忠良氏藏金槐集・前田家藏青表紙本源氏物語柏木の卷〈卷頭十二枚の第一行まで定家自筆、以下類似の他筆。〉同藏恵慶集〈外題及び卷首二葉定家筆、殘餘は他筆。〉益田家藏百番歌合・後百番歌合・月清集等定家關係の數書を擧げてある。この他、冷泉家所藏の基金吾読・江帥集や前權典厩集なども卷初の一・二葉のみ定家の自筆で、以後は別筆である。いづれも卷初とでは筆蹟を異にしてゐるが、たゞ松平家舊藏傳行成筆和漢朗詠集(伊豫切)の後半書繼ぎの部分については、その前半部と料紙の紙質等をも異にしてゐる所から、これをやゝ時を後にする書繼ぎと考へる説が一部に行はれてゐる程であるから、他の諸例と一樣に考へる事には疑問がある。然し、かくの如き合筆の例は古く平安朝の中期頃からも見られる事であつて、世に忠家筆の柏木切、俊忠筆の二條切と傳へてゐる和歌合抄中の歌合には、その類例を極めて多く含んでゐる。特に柏木切と稱せられてゐる手の歌合に於いて著しく、その殆ど全部は二條切或はその他の筆との合筆になるものであり、卷初の歌合名の見出しの如きは誰くそれら他筆の手になつてゐるのであつて、一個の歌合を柏木切筆者が單獨で書寫してゐる例は全く見當らない

降つて鎌倉時代、或はそれより以後室町・江戸期のものに至つては、極めて多くの實例を指摘する事が出來るであらう。而して合筆の筆者相互の關係についてみると、定家關係の數書や前田家本大和物語を始め柏木切など、凡べて書繼ぎの部分は女筆と判ぜられるものであつて、恐らくは近侍の子女をして書繼がしめたものと見える。その他、或は親子・師弟の合筆と考へるべき場合もあり、室町・江戸期のものにはこれが多いやうである。ともあれ、解説にも言つてゐるやうに、「先づ上位の者が筆を執り、その後を下位にあるもの即ち門弟子女等をして書かしむるのが普通で」あつたと考へられるのである。

次に、單に卷初を書するのみに非ず、書繼ぎ筆蹟中の要所々々に故意に空白を設けしめて後に自ら填字して行つたと思はれる例も、前田家本大和物語以外に若干を求める事が出來る。かの松岡忠良氏藏の定家所傳金槐集にあつて、卷初の三頁及び戀の歌の初一頁、雜の部の一頁が定家の筆になるものであるほかに、題詞その他こゝかしこ約百十數箇所に定家筆の填字が存する事實は、既に何人も周知の事であらう。佐佐木信綱博士の稿になる「〈藤原定家所傳本〉金槐和歌集解説追記」には、その百十餘箇所の定家の筆を盡く指摘して掲げてあるが、その他にも

四二頁 二行目 更衣をよめる(右解説追記には「更衣」二字のみを定家筆とす。)
一二一頁 一行目 祝の心を
一七六頁 三行目 下向に

の三個を追加すべきであり〈頁づけは、追記と同じ方針によつた。以下同之〉他にも尚それかと思しきもの一二が存してゐる。いづれも後に追記填字したものであつて、解説に下句の脱漏として注意した所の

      寺邊夕雪
うちつけに物そかなしきはつせ山おのへのかねの
ふるさとはうらさひしともなきものをよしのゝおくの

の二首〈一一一頁より一一二頁にかけて〉の如きも、實は填字の際の見落しと考へるべきである。〈この集には一首の下の句のみを定家が書いた例がある。この二首、群書類從本には共に末句を「雪の夕ぐれ」とする。〉他に

二〇〇頁 五・六行目 (前略)なく〳〵申ていてぬ時に  といふことを人々におほせて(下略)

とある約二字分の空白は明かに填字の脱漏であるが、更に

の四首が共に詞書を有してゐないのも、或は定家の見落しによつて補入されなかつた爲かと思はれる節がある。いづれにしてもこの定家所傳の金槐集に追記填字の事實があり、その際の脱漏と見倣される個所も尠なからず存する事は、何人も認めねばならない所であると考へる。而してこの事實は、同じ定家と書繼ぎ女筆〈右の金槐集の書繼ぎと同筆〉との合筆になる益田男所藏の百番歌合・後百番歌合においても、或は又寂然筆と稱する定家手澤の貫之家集斷簡(村雲切)においても同樣に指摘する事が出來るのである。

静嘉堂文庫所藏の傳藤原爲家筆古今和歌集〈大和綴四半本一册卷十までの上册のみ〉は、鎌倉時代の中期から末期にかけて、ほゞ爲家と同時代の書寫になるものであるが、これにも筆蹟・字配り・墨色から見て明かに異筆の追記補填と考へられる多くの文字を有してゐる。本文の筆蹟に比しては甚だしく枯れたふるへる如き老筆であつて、遙かに長上の筆たる事は勿論であらう。假名序にあつて數個所、本文に於いては各卷の卷初内題以下の數行は必ずその筆蹟になり、題詞・作者名等に於いて實に枚擧に遑なき程の多數の填字補入を見出す事が出來る。これにも填字の際の脱漏と見倣すべき點が多く存し、詞書中に空白の部分があつたり、或は他本のいづれにも存する詞書や作者名がこの本にのみ缺けてゐたりするのは、いづれもその爲と解せられるのである。

かくの如き填字補入は更に古く平安朝時代の書蹟にも存してゐる。前田侯爵家所藏の傳宗尊親王筆歌合卷中、延喜十三年三月十三日亭子院歌合の假名序に、左頭の名を連ねた中に「右衞門督有實朝臣」の名があるが、〈同歌合の卷初より第四行目。〉「有實」の二字は校合者の後の追記填字となつてみる。〈編者源經信の書入か。〉然しこの傳宗尊親王筆歌合卷には、他にかくの如き例が存してゐない所をみると、今の場合の例證とする事は出來ないかもしれず、恐らくは書寫の際原本讀み難かりしか或は原本既に空自なりしかの爲に、餘白を殘しておいたのであつたかもしれない。〈因みにこの箇所は類從本に「なかみつ」とあり、異本に「有定」ともあり、諸本に相違多いところである。〉けれども、それより三四十年の後堀河天皇御宇嘉保の頃に書寫成立を見た和歌合抄には、確かに填字補入の事實が認められるのである。既に柏木切と稱せられてゐる手には、特に他筆と合筆になつてゐる場合が多い事は既述した所であるが、例へば天祿三年の齋宮女四宮歌合についてみるに、卷初の見出しから假名日記の初頭五行までを二條切の筆者が書し、以下柏木切筆者が書繼いで居り、第七葉の第二十一行目(末八行目)から同葉末尾までは再び二條切の手となり、次の第八葉初頭から以下は又柏木切の手で書繼がれてゐる。而して兩者には墨色の上にも何等の相異を認め難く、その連接の實情より察しても全く同時に書繼がれて行つたものと察せられるのであるが、この他この假名日記中には「天暦」の「暦」字を二條切筆者が填字した所がある。或は同じ柏木切の手になる京極御息所歌合にも、卷末の假名日記中「沈をしき」・「しろかねの」の二個所は、故意に殘された二字分の餘白に二條切筆者が填字したものであり、他に「題」・「忠房」の二個所も他筆の填字となつてゐる。麗景殿女御繪合の假名記中には、「歌林」・「(上)﨟」「一二番上達部」等數個の二條切筆者の填字があり、かくの如き例は尚他にも存するのである。天喜四年四月卅日の皇后宮歌合や鳥羽院歌合・源順馬名合にあつては、番數・題名・左右・作者名等の眞字はすべて同時の他筆によつて書かれてゐて、平假名を以て書した和歌とは行を交互にしてゐるのである。單に番數・題名・左右・作者名の一部に故意に他筆を交へてゐる例ならば尚若干を加へる事が出來るであらう。而してこれらの和歌合抄中の歌合で補入填字の事實の見られるものは、柏木切を始め多くは女性の筆と考へられるものに於いてであり、補入又は填字された文字は眞字である事が普通であること、且又その文字はすべて男性の筆と考へられるものである事などは、特に注意を要する事と思はれる。これを要するに、書寫者が女性である場合には、故意に眞字の一部の書寫を憚つて、わざと空白のまゝに殘して置き、書寫を依頼した當事者又は他の男性の填字補入を俟つといつた如き事情にあつたものかと想像するのである。

以上の他、紫式部の筆と傳へる古今和歌集の斷簡久海切も或はこの例ではないかと思はれる。筆者の傳はもとより古筆家の鑑裁の常として信ずるに足らぬが、ほゞ平安朝中期頃の女性の筆なる事は動かないであらう。遺存するのは何れも卷十二・十三の斷簡でその數も僅か數葉を知り得るに過ぎないが、安田家藏の卷十三卷頭の一葉には、最初に女筆とは考へ難い寫經體で古今和歌集卷第十三〈戀五十/八首〉とあり、以下を女筆で書してゐる。既述の静嘉堂文庫所藏傳爲家筆古今和歌集の例も思はれて、或は本文中の諸所に同じ男性によつて填字追記の事が行はれてゐるのではないかとも想像されるが、確證を得ない。保安元年の書寫になる傳源俊頼筆三寶繪(東大寺切)にも、寫眞によれば一二後の填字追記かと思しき文字が見えるが、更に原本について調査した上でないと斷じ得ない底のものである。ともあれ、かくの如き本文書寫上の事實は、既に平安時代から行はれたもので、鎌倉時代に於いても一部には相當行はれてゐたであらう事は明かに察する事が出來るであらう。

  1. 拙著「類聚歌合とその研究」參照。
  2. 二一一頁一行目の「心不常といふ事をよめる」ば疑問としてあるが、明かに定家の筆と見るべきである。四二頁五行目の「夏」、二二八頁二行目の「勅を」は定家筆かとも思ふが、實物についてしらべる要がある。
  3. 金槐集においては、同じ詞書の下にはその歌又は同類の歌のみを收めてゐて、その詞書に適當しない異種の歌を含めることはない。(一)は「螢火亂飛秋巳近といふ事を」といふ詞書ある「かきつはたおふるさはへの」の一首と並べてあり、(二)は「こがねによするこひ」と詞書した「こがねほるみちのくやまに」の歌と並ベ、(三)は「なてしこ」と詞書した「ゆかしくはゆきても」の歌と並べ、(四)は「はまへいてたりしにあまのもしほ火をみて」と詞書した「いつもかくさひしきものか」の歌の次にあるが、いづれも、前歌の詞書に含まれる筈のものではない。(二)・(四)の如きは前歌との間に優に一行分ほどの空白を有し、(一)・(三)も夫々相當の餘白があるのをみると、いづれも定家の補入の際の見落しによるものと思はれるのであつて、現形は源實朝自筆の金槐和歌集原本の趣を傳へるものではあるまいと思ふ。因みに、群書類從本には(一)に「蝉」、(三)に「戀」の詞書がある。
  4. 例へば三九六(國歌大觀番號)の詞に「□□のみかと」とあつて「仁和」の二字を缺字にし、又、三五七の詞に「四十賀しけるときに□□のゑかける云々」とあつて「四季」の二字を缺字にしてあるなど。
  5. 例へば三三〇・三三六・四一五・四二四・四五四の詞書及び三八四の作者名など。
  6. 「花々しともとめられたるあたしのはくさかくれたるをしる人もなかりけりとおもふ」とある文中の「さかくれ」以下から「はかなしともとかれたるとこなつのつゆは」の「とこなつ」の文字まで。文の段落に關する事なく全く機械的に行の改り目から書きつがれてゐるのである。
  7. 尚、この和歌合抄の筆蹟に關する條は拙著「類聚歌合とその研究」參照ありたし。

上述の如くして前田家本大和物語に存する填字の事實は他にも類例の多い事を知るのであるが、然らば果してこれが如何なる理由に基き、又如何なる意味を有するものと考ふべきであらうか。定家所傳本金槐和歌集の解説のなかで、佐佐木信綱博士は同集に存する定家の追記補入の事實について「原本讀み難かりしものとおぼしく、數字分を空白のまゝに存せし所々に、定家が文字を記し入れ居れり」と説明してゐられるが、決して左樣な理由に基くものとは考へ難い。中古に通有した何等かの一般的な理由が存してゐるであらう事を、以上の諸例が暗示してゐるやうに思はれる。

自分はそれを中古における校合の一形式ではないかと想像する。前田家本大和物語の奧書は既に掲げた所であるが、弘長元年十二月家本を以て書寫せしめ、同二年之を校合するの由を爲家自筆を以て識してあるが、この弘長二年の校合が即ちそれに當るものと思ふのである。奧書によれば書寫の事は何人かに代筆せしめたが、校合は爲家自らによつて爲されたものと解せねばならない。〈「令校合」とない事に注意。〉今、この前田家本大和物語について、本文の傍に記された字句の異同即ち普通に校合と考へられるものを求めると、ほゞ八九個所を數へる事が出來るが、いつれも書繼ぎの女筆と見るべきものであつて、爲家の筆ではない。從つて、右の弘長二年に入つてから成された爲家の校合といふのは更に別のものをさしてゐると考へるべきであらう。凡そ校合の業作が行はれた以上は、その書寫本が原本又は他の比校に資した他本との間に一字の字句の相違もないといふ極めて稀な場合は別として、普通には何等かの程度で、字句の異同・脱字の補入が記入されるのが常と考へられる。殊にこの前田家本大和物語の場合の如きは、書寫の際における目移りなどに基くと思しい特有の脱文も多くて、その原本となつたものとの間に一字の差異もないとは考へ難いものであるから、脱文・異同に關する記入が多々あつて然るべき筈のものである。但し、實際にその脱文の補入が行はれてゐないまゝの所が多いのを見れば、爲家の校合は必ずしも周到嚴密なものでなかつた事は明らかであるが、それにしても校合した以上その痕跡が毫も存してゐないなどといふ事も亦考へ難い事であらう。かくの如く考へてみると、本文書寫後に爲家自らによつて書入れられたものとしては既述の填字の場合を措いて他に存しないのであるから、或はこの填字の事實が奧書にいふ校合と密接な關係にあるものではなからうかと思はれてくる。即ち中古にあつては、一本を書寫するに際し、自らは卷初等の一部を書寫するのみで他は盡く近侍の門下・子女等に代筆せしめ、故意にその要所々々に空白を存せしめて、後に自ら原本と對比して空白を填めて行く。かくの如き方法をも校合と稱し、その一法と認めてゐたのではないかと思ふのである。校合とはいふものゝ、單に空自の個所のみについて原本との對比を行ふに過ぎなかつたために、自然見落しの個所も存するし、又その他の脱文や誤寫を補正する事がなかつたものと考へられる。定家所傅の金槐和歌集や百番歌合・後百番歌合、及び靜嘉堂文庫所藏の傳爲家筆古今和歌集等の場合も皆同樣であつて、共に中古における校合の一方法を示してゐるもの、尚今後の考證を俟つべき臆斷ではあるが、自分は大體右の如く考へておきたいと思ふのである。

故意に空白を存せしめて後に填字する例は平安朝の末期にも既に存ずる事は既述した所であるが、それをも右の定家・爲家の諸蹟と同じく校合のある場合と見てよいか否かは、直ちに斷言し得ない事であると思はれる。傳源俊頼筆三寶繪は填字の有無不確實であるから別として、その他の合筆並に填字の行はれてゐる諸例についてみると、かの二條切・柏木切の場合や傳紫式部筆久海切を始め、定家・爲家の諸蹟にあつても、いづれも合筆の關係多くは男性と女性とであつて、書繼ぎの部分が女筆に決つてゐるのが、偶然以上の感がして特に注意をひくのである。これは恐らく填字が漢字に多い事と關係があるのでなからうか。平安朝時代にあつては女子は漢字・漢文を使用する事をなるべく憚つて故意に避ける風があつた。柏木切や久海切等に、漢字を故意に空白にする所あるのはさういふ理由に據るものであらうかとも思はれる。而してこれを填字する者の側に於いても、當時は未だ校合といふ如き意識はなかつたものかも知れない。最初は闕字及び填字がさういふ理由のもとに行はれてゐたのが、定家・爲家の頃に至つては、闕字が後の校合を豫想せしめる一方途として利用される事となり、填字の範圍も擴大して、漢字の他に假字をも含んだ一首の詞書の全體、又は詞書歌句の一部分を空白にするといふ如くになり、更には校合も形式的に流れて單に空自の部分を填めるに止めるといふ風にまでなつたものと考へるのが、先づは考へ得る至當な經路でなからうかと思ふ。

一部の書を書寫するに當つて自らは卷初と一部分のみを書して他は人に代筆せしめて用を辨ずるといふ方法が、平安の末から鎌倉以降にかけて流行した理由の一面には、確かに證本傳受の盛行も亦與つてゐる所があるらしく思はれる。凡そ往時に於いて書物を書寫するのは、自家の用に供するか、又は他に誂へられてその需めに應ずる爲かのいづれかであつた。平安の中頃から和歌其他文學の道に於いても古典の研究が行はれ、師資相承による秘説の授受が守られて家學が形成される事となると共に、證本の授受も亦重要な意味を有つに至つたのであつて、弟子は師から證本の授受を得てから後、始めて秘説をも授けられる例であつた。師は家本の披見を弟子に許して書寫せしめるか又は自ち家本を寫してこれを弟子に與へる。そしてその書本の奧に自ら奧書(證明状)を書して家本に相違なき由又はそれを何人に授けたかを證明するのである。定家・爲家の如き道の人ともなれば、かくの如くして他に誂へられて證本を書寫する事甚だ多かつたであらうし、從つて自らが必ずしも全部を書寫するとは限らず、時には一部のみを自ら書いて殘りは他筆を交へたり、又は全部を他に代筆せしめて、それに奧書を附記して授けるといふ如き場合も多かつたであらうと思はれる。他筆を交へて合筆になつてゐる鎌倉期の書本の中には、さういふ想像を成立たしめるものが多いのである。しかもそれは全卷を自筆で書したものと同樣の證本としての權威を有してゐた。この前田家本大和物語の如き、當時としては極めて美麗豪華な料紙を使用してゐる事や、又その奧書から考へても、恐らくは何人か高貴の人の誂へに應じて書寫し與へられた證本であつたと考へるが至當であらう。例へば、吉澤義則博士御所藏の寂惠自筆本拾遺集の如き、上帖のうち卷一・二・十のみが寂惠の筆であつて、他は他筆になつてゐる。これは、彼がその弟子「糟屋賢郎」に授けた證本であるが、奧書によると、「斯集雖有一部書寫之志、老病右筆不合期之間、上帖之内、第一第二第十染愚筆、其外所用他筆也云々」とあつて、他筆を交へたのは老病の故であつたと記してある。この他、別にこれといつた故障がなくとも、特に自分が多忙であつたり煩雜に思つたりした場合に、他筆をして書繼がせるといふものと思ふ。

闕字を填字してゆく方法による校合が加へられるのも、かういつた證本傳授の爲として學問的に書寫されたものに多かつたのではないかと臆測されもするのである。もとより、これが合筆及び填字になつてゐるものゝすべてについて考へ得るものでない事はいふ迄もないが、以上の如き事情のもとにあるものも多々あるであらう事は疑ないと考へる。

往時の校合と稱するものの中には、かくの如き杜撰な方法による場合もあつたといふ事は、古寫本を取扱ふ際に於いて心得て置くべき事であらう。屡々これが詞句の不明を來す原因となり、又歌集にあつては詞書・作者名の脱漏を惹起して、共に原形を損ねるに至る機縁ともなつてゐるといふ事實には、特に我々の注意すべきものがあると思はれる。以上、前田家本大和物語の調査中偶感せし書誌學的な私見の一二を述べて、更に博雅の士の御批正を乞ひ、蒙を啓く事を得たらと思つて、こゝに筆を執つた次第である。

【附記】

前田家本大和物語の複製本には數十頁に亙る詳細な解説があるが、筆蹟のことについては充分に調査されてゐないやうであるし、殊に填字の問題については毫も觸れてゐられないので、こゝにそれを指摘して考へて見たのである。その内容については、先年自分が發見することを得た文明八年の書寫になる藤波家舊藏の古鈔本(天福元年十二月廿九日の書寫になる定家本)を近く發表するつもりであるから、その時に述べる事にしたい。右の天福本大和物語の發見によつて、從來の大和物語定家本についての研究には多くの修正すべき點を見出した事を附記して置く。

底本
堀部正二『中古日本文學の研究』(教育圖書、1943年、pp.1—21.)