本朝書籍目録考證私記

ほゞ弘安・正應の頃に撰述されたと思しい本朝書籍目録には、周知の如く當時以前に成立した四百九十三部の典籍を二十篇に分つて著録してあつて、本邦文獻に關心を有するものにとつて洵に貴重な資料といはねばならぬ。故和田英松博士の本朝書籍目録考證は、所收の個々の典籍について考證解説を加へて廣く學界を益する所極めて多い名著であるが、自分は漸く最近になつて遅蒔きながら拜讀することを得た。元來、本書の如きは、その收むる所極めて多方面に亙つてゐる爲に、到底一個人の力に望み得ないかに見える難事業であるが、博士の該博な知識と絶大なる精力とは、よくこの仕事を克服せられたのである。博士の深い學恩に浴して啓發せられるごとの極めて多かつたのは、強ち自分ばかりではあるまいと思はれる。

この書の披閲によつて教へられた所はしかく數を以てあげ得ぬ程の大きいものがあるが、尚若干自分の思ひ得た點がないでもない。博士自らもその解題の末尾に於いて、その未勘の書の解明を將來に期してゐられたのであるが、博士亡き今では、その意を體してこの書の完成に力を致すのが、その學恩に浴した後昆の義務でもあらうと思ふ。菲才をかへりみすこゝに私記と題して小篇をものしたのは、もとより博士の名著の闕を補はんとのおほけなきにはあらず、たま〳〵思ひ得た所を記して博雅の御是正を乞ひ、些かなりとも採るに足る所あらばと希ふの故に他ならないのである。

(一)類聚樂録。

管絃の部に類聚箏譜と並んでみゆる。考證に「管絃についての事どもを類聚したるものなるべし。今世に傳はらざれば、著者も卷數も詳ならず」〈四七四頁〉と記されてゐるがこの書のことは類箏治要第十六册盤渉調下の輪臺について述べた條に

類聚樂録云 知足院禪閤撰
輪壼〈拍子十六〉可彈四反有詠 輪臺爲序 青海波爲破

とあつて、知足院關白忠實の著になるものである事が知られる。忠實は管絃の道にも通じ類聚箏譜もその撰著であるが、樂録の方はそれより廣範な内容を有してゐたものかと思はれる。卷数はなほ不詳である。忠實には尚、三五要録によるに「兩都箏譜」の撰があり、又體源抄第五によると、「絲竹譜」と稱する箏笛等譜を並集めたものがあつた由であるが、これらとの關係も不明である。因みに類箏治要は菊亭侯爵家、近衞公爵家所藏の善本及び京都帝大附屬圖書館藏四天王寺樂人林家舊藏の本などによつたが、卷五に永仁二年、卷第十四に永仁四年の奧書があり、鎌倉期の樂書と思しく、仁智要録、三五要録などと共に極めて注目すべきである。

(二)桂譜

考證には「世に傳はらねば、如何なるものか詳ならず」とあつて、體源抄に基いて桂少輔信綱の琵琶の譜かと推定しつゝ、尚桂大納言源經信の譜ならんかとも疑つてゐられる。然しこれはやはり信綱の譜と斷ずべきでなからうか。胡琴教録に桂少輔譜・桂少輔の秘譜〈うちぐもり〉うちぐもりの譜などとあるものがそれであると思ふが、この譜は孝博の流や經信流などと若干故實の相違があつたやうである。信綱ぼ經信の孫に當り、基綱の末子であつたが、基綱の流は嫡男坊城宮内卿時俊にこと〴〵く傳はつたのであつて、信綱は伊賀前司孝清の養子となつて孝博に比巴を習ひ、成長の後更に父基綱の教を受ける事となつたが不堪の故に口傳を受けなかつたといふ。而して經信が自筆に書いて基綱に傳へた譜は、基綱のむこ尾張守爲遠の女子大原の尾張殿に傳つたといふのであるから〈以上胡琴教録による〉信綱は經信の秘譜を傳授されなかつたに相違ない。木師抄によると彼は孝博の流とも違へむ爲に敢て異読をも持したやうであつて、信綱は新に自家の譜を制定したのであつた。妙音院太政大臣菅原師長の編した三五要録には、桂譜の説を引きそれとの異同を注した所が多いがその催馬樂譜の條には、源家の説を本體としつゝ藤原説、中御門大臣説、桂譜〈以上、單に藤・中・桂とも記してある〉西譜などの異説をも併せ載録してゐるが、師長と信綱との師弟關係を思へば、こゝに桂譜として掲げるものが信綱の譜である事論無いであらう。〈因みに、西譜といふのは、秦箏相承血脈に琵琶藤王西極房願西と號したといふ樂所預藤原孝博の琵琶譜である。〉師長は中御門大臣宗能に郢曲の秘傳を受けると共に桂少輔信綱・六波羅密寺別當覺暹・樂所預藤原孝博などから琵琶の血脈を繼いでゐるのであつて、三五要録に注するのは、夫等の人から傳授された説と見るべきである。現に三五要録卷第二の末には師長が孝博桂少輔覺暹などの説を取合せて記したものであるとの由を記してゐる。胡琴教録によると、桂少輔が光を放つたのも專ら師長の師たるの故であるといふ。経信が琵琶譜を作成したといふ事實は見えないのであり、〈伏見宮家御所藏に經信自筆の琵琶譜が現存してゐるが、それは和田博士もいはれた如く、兵部卿資通より傳授したまゝの寫しである。記述した胡琴教録の、經信が自筆に書いて基綱に傳へた譜といふのも同樣のものでなかつたか。〉且つ以上の諸點より見れば、體源抄の記載の如く、桂譜は桂少輔信綱の琵琵譜と考へて誤はないであらう。而して、この譜のことについては胡琴教録に相當委しい記述がある。「又云。予桂少輔につきて秘曲をでんじゆのごろをひ、蒙㆓口傳及奧旨㆒。兼又世上に所㆓見聞㆒有㆓不審㆒之時、かならずまづ参向敲㆑之有㆑時、予申云、御老耄ののちゆふべに參入心にまかせて不審をたづねたてまつるでう、そこぶる心なきものににたり。治部卿殿〈信綱女、〉にとひならひたてまつらんと思ふ。いかん。少輔おほきにはうたてゝいふ。なにのれうに、そのふたうもののにならはるべきや。わが存生のあいだは、かゝる事うけ給はらじといひて、これをたてまつらん。わが習ひつたふる所の曲調竭㆓此譜㆒者也とて給㆑譜。うちぐもりといふは、すなはち此譜の名なり。手掻合及喙木等の秘事くでんまで、師説にまかせてしるしつくと云々。わが貴重してもつとごろに、二條院御時治部卿殿申状によりて、くだんのふをめさる。すなはち進上る。ついに返し給はらす。表紙などして、ある人にめいをかゝせしめ給きざみ、中陰と書る極る凶事とて、人々かたぶけられし程に、ほどなく御藥事いできたりて、やがて崩了。件の譜、今蓮華王院の寳藏にあり。うちぐもりの色紙にこれをかく。よてこれをめいとす。そも〳〵かのふおなじてい二部あり。しかるに、今一部をば、さいあいのおとむすめ師殿といひけるにゆづり給云々。少輔しにて後、帥殿を養育しける奧殿といひける傀儡、寶物之由をきゝて、これをおしとる。奧殿有㆑事刻に襲追捕了。今不㆑知㆓件方㆒云々。」以てその内容の一斑と傳來を知るべきである。

(三)綿譜。頼吉撰

考證に王監物頼吉の横笛の譜とあるが、妙音院師長の三五要録には壹越調曲・雙調曲等の譜の一部に綿譜との異同を注してゐるし、同じ人の仁智要録にも大食調曲其他の條に綿譜の一節を掲げ、又はそれとの異同を記入してゐるのであるから、單に横笛のみならず、琵琶・箏の譜をも含んでゐたものかと想像される。その書名については考證にも不詳とあるが、いかなる故に名づけたものであらうか。長承二年五月に成つた大神基政の龍鳴抄に、入道左大臣殿の御物語として、王監物頼吉がまだ古部延近の弟子で世から王太といはれてゐた當時、内宴に際して最凉州の古樂を彼一人知つてゐた爲に大いに面目を施して、宇治殿頼通のひきで監物になり内從の頭になり樂所の預りになつたといふ逸話が載せてある。王太は、平仲〈平貞文のこと〉藤太〈藤原興風のこと〉藤六〈藤原輔相のこと〉曾丹〈曾禰好忠のこと〉などに類した一種の綽名であつて、綿譜のワタといふ稱はこの王太と關係あるのでなからうか。而して同じ龍鳴抄には別に「たゞし頼吉がわたふ綿譜といふ物あるなり。土御門の大納言殿より富家殿忠實にたてまつらる。殿下より當院にたてまつらるゝ譜にあるなり」ともあつて、頼吉の弟子土御門大納言宗俊から鳥羽院まで傳へられて行つた事が知られるのである。

(四)前栽秘抄。一卷

考證に「著者明ならず。作庭記の如き、園藝に關するものなるが如し。今傳はらねば、そのさま詳ならず」とあつて不明の書であるが、最近京都帝國大學附屬圖書館寄託の陽明文庫藏書中から同名の寫本一冊を見出すことが出來た。豫樂院近衞家煕公の手爲本であつて、佚書を得たと、喜んだのであるが、その内容を檢してみるに群書類從所收の作庭記と同一である。奧に「正應第二夏林鍾廿七朝徒然之餘披見訖  愚老(花押)」と奧書があり、花押は天台座主慈信僧正のものと藍で注してあつて、〈但し僧官補任によるに、天台座主次第の條に慈信の名見えず、正應二年頃の座主は慈助親王である。同所興福寺別當次第の所には、慈信僧正が弘安、正應頃興福寺別當であつた由が見える。故にこの注記には、天台座主とした所か、慈信とした所かに誤があると思はれる。〉更に原本の字體に模して「後京極殿經書重寶也可秘々々(花押)」とも記されてゐる〈類從本作庭記にも「右一卷以後京極殿御自筆本不違一字書寫畢」と奧書があるから、同じ系統から出てゐるのであらう。但し、類從本には前記正應の奧書はない。〉即ちこの書は後京極攝政良經によつて書寫された事もあるのであるから、その薨じ翫た元久三年以前のものである事明白である。本朝書籍目録に見ゆるのは即ちこの書の事でなからうか。陽明文庫本に前栽秘抄と外題するのは或は豫樂院の私意によるものかとの疑もあらうが、寧ろ前栽秘抄即ち作庭記で、兩樣の名稱があつたのであり、或は前栽秘抄の方が原名らしいとも思はれる。なほ後考を俟つべきである。因みに作庭記は普通に後京極良經の撰と傳へられてゐるが、それは筆者を撰者と謬つたものと思しく、實際は更に古いものであるかも知れない。立石口傳の條の終に「石を立るあひだのこと、年來きゝをよぶにしたがひて、善惡をろんぜず記置ところなり。延圓阿閣梨ハ石をたつること相傳をえたる人なり。予又その文書をつたへえたり。如此あひいとなみて、大旨をこゝろえたりといへども、風情つくることなくして心をよばざるごとおほし。但近來此事委しれる人なし。たゞ生得の山水なんどをみたるばかりにて、禁忌をもわきまへす、をしてする事にこそ侍めれ。高陽院殿修造之時も、石をたつる人みなうせて、たま〳〵さもやとてめしつけられたりしものも、いと御心にかなはずとて、それをばさる事にて、宇治殿御みづから御沙汰ありき。其時には常參て石を立る事能々見きゝ侍りき。(下略)」とあるによつても、少くもとの立石口傳の條だけは良經の筆になるものに非ず、後一條帝の御代に生存した誰人かの手になる事は明白である。〈延圓阿闍梨のことは、僧官補任の天王寺別當次第に、「延圓阿閣梨(長元八十一廿八任)」と見えて居り、且つ同じ條の頼秀僧都に、「長暦四二五任延圓死闕替」と注してあつて、ほゞ長暦四年に死した事が知られる。著者はこの延圓から文書を相傳された人であり、この記載の趣からみれば、或は延圓死去後の記載かとも臆測される。而して又、この高陽院殿修造の記事は、小右記の治安元年九月廿九日條に、「(前略)乘暗來云、參高陽院、上達部多會、營造之由、作山立石、高大莊麗無可比類、諸大夫手自洒掃、毎問宛人令勤其事以挑人瑩不異、明鏡過差之甚可倍禪門、又々令成五六尺、立石、令植樹木云々」とある記事を思ひ出させる。〉

(五)裁判至要抄 一卷

この書は土御門天皇の御代、後鳥羽院の院宣を奉じて明法博士坂上明基が撰進したものである。考證には古寫本として前田侯爵家所藏清原時定筆の文明十年の寫本をあげてゐるが〈群書類從本も同系統である。〉最近陽明文庫中から弘長の古鈔本を見出したので追加して置く。表紙の左肩に裁判至要砂と墨書し、左下隅には行賢と署名があつて、卷子を折本にしたもので、料紙には墨界を施してゐる。最初に目次があり、本文これに續き、奧に建永二年八月廿六日の跋文が存してゐる。次に一行を隔てゝ

御抄草加一見返獻之、恩借之條以外候、殊悦思給候也、毎事期見參之時候也、恐々(蟲)言
  九月十日                             中宮權大進宗行
 大判事殿

の奧書があり、更に

弘長三年三月十五日書寫之了
校點了                                 桑門行賢

とあつて、行賢の筆である事も分る。紙背には簡單な裏書が存する。本文には相當詳しく訓が附してあつて、國語學資料としても注目すべく、「棄毀クヰクヰセラバ」「スゴセラバ」「欺者アザムケラバ」「斃者  セラバ」・「死失者  セラバ」・「セラバセント㆒者」・「誤失者シツセラバ」・「違 セラバ㆓教 ニ㆒者」・「改 シテユケラバ ニ㆒者」・「カウセラバ㆓祖父母々々 ヲ㆒者」の如き特殊の語法が見える。

(六)文鳳抄 十卷

この書については「考證」に詳述してあつて教へられた所が甚だ多い。類本の極めて少いもので、博士は(1)寶生院所藏本〈弘安元年寫。卷四・卷七を除く八卷。〉(2)内閣文庫本〈卷二・七・九・十を除く六卷。〉(3)前田侯爵家所藏古寫本〈正安・永仁の寫。卷一・四・六を除く七卷。〉(4)和田博士所藏和學講談所舊藏本〈卷一・卷四のみ〉の四種を紹介せられたのであるが、山岸徳平氏は「國語と國文學」〈第十四卷第六號〉の書評欄で、更に(5)神宮文庫本〈卷一・卷四のみ〉(6)圖書寮本〈卷三のみ〉(7)内閣文庫所藏和學講談所舊藏本〈卷二・四・七を除く七卷。〉の三種を追加してゐられるのであつて、これが世に知られてゐる殆ど凡べてゞあらう。然るに自分は京都帝國大學附屬圖書館に寄託されてゐる菊亭侯爵家の圖書の中に、兩氏の考説に漏れた卷五の古鈔本一帖があるのを知つて調査する事を得たから、こゝに蛇足を加へて置く。菊亭本は縱六寸横五寸四分、ほゞ桝型の綴本〈紙を二つ折にしたものを重ねその折目に近い方を紙縒で假綴してある。〉で、藍色の表紙左肩に文鳳鈔卷五と墨記してある。料紙は厚手斐紙、白界を施して各面七行、墨付五十七枚。奧書を有しないが、紙質筆蹟より按ずるにその書寫年代は到底鎌倉時代を下らざるものと思しく、ほゞ寶生院所藏本、前田侯爵家所藏本などと相近き頃のものであらう。内題には秘抄第五と記して人部を收め、帝王・太上皇以下、官學・閑忙に至る。その書寫の體を見るに、熟字の出典をあぐるに、傍訓なるてにはは片假名で漢字右下に小字で記した所があり、漢字には朱にて四聲を點じ訓を附してある。而してこれらの朱點及び朱の附訓は本文書寫の時を多く隔てざるもので、國語學的資料として見るべき所が甚だ多い。〈例へば、後世下二段に活用する「懼」にヲソリと訓じるのは古代に四段に活用してゐたのを承けたものであるし、この他、音韻史的にも興味ある資料がある。〉たゞ惜しむらくは一卷のみの零本なること。然も尚、その書寫古き善本にして逸すべからざるものなるを思つて、敢へて大要を紹介したのである。

(七) 言談抄 一卷

本朝書籍目録の雜抄の部に收められた「言談抄」については、博士も「いかなるものか詳ならず」と述べて、但し知足院關白忠實の談話を何人かの筆記した富家言談、即ち續群書類從所收の富家語談を以て或はそれに非ざるかと疑つてゐられる。元來王朝の末期から鎌倉時代にかけて、自己の見聞や他人の言談を録した説話集風のものが盛に作られたやうであるが、それらの中には名のみ傳へてその内容も著者も知られぬものが多く、この書籍目録雜抄の部に載するものゝ中だけでも、この言談抄を始め、打聞一卷〈山口光圓氏所藏打聞集は或はこの書のことかといはる〉見聞記一卷・隨見聞抄一卷〈師遠抄〉視聽抄廿卷・雑抄二卷・隨見抄等がある。言談抄についてはもとより自分もその内容を詳かにしないのであるが、ほゞ王朝末期になつたと思しき説話集で、他人の言談を録したものに、或はこの言談抄などと同類のものかと思しき古鈔本を寓目した事もあるので、旁々それをこゝに參考までに述べて置かうと思ふのである。

それは、古談抄と題して東洋文庫に藏せられてゐる廣橋家舊藏の古鈔零卷である。もとより古談抄なる書名は近時になつて新たに附せられたものであつて原名は未詳であるが、書寫は鎌倉期を下らざるものと思しく、具註暦一葉及び書状二通の紙背に記した計三葉を傳ふるにすぎぬものである。暦の十日條に「參法華堂了」十一日條に「向嵯峨了」十五日條に「持齋念誦」等の句が見え、書状内八月五日附の一通には「法眼兼□」〈一字不明「實」か〉の名と「辨僧都御房」の宛名が見ゆる。從つて或は辨僧都といふのをその筆者と見るべきかも知れぬ。仁和寺諸院家記の皆明院の條に隆盛僧都〈號㆓辨僧都㆒。宇都宮頼綱子〉と見えるが、果して同人か否かも疑問である。ともあれ、これが緇流の筆になるものでみる事はほゞ想像して大差ないと思はれる。

現存の部分には僅か三段の説話を載するにすぎない。最初の一段には初頭に闕脱があるか或は前段を受くるものかと思しいが、「師保語云々」に初つて藤原伊房卿の略傳性行を記し、第二段は、師成大貳が西府に在る時兵衞佐爲家が良聖の靈に惱まされた話を聞書きしてゐる。第三段は「交禪阿闍梨〈在禪/林寺〉語曰」として、二條殿御上が三年許腹脹給うて止らなかつた時、故大僧正の驗徳によつて邪氣を調伏した由の説話が記されてあり、何れも漢文體である。何人の著録になるものか、又何時の頃に著はされたものかは明瞭でないが、平安朝後期院政時代に成つたものの斷篇であるごとはほゞ想察されるものである。〈師保は或は大外記師安かと思はれる。〉ともあれ、この、古談抄はほゞ院政時代になつた聞書集と思しく、本朝書籍目録雜抄の部に見ゆる言談抄以下の諸抄と同類のものかと思はれる。その内容より見れば、他人の言談を録したもの、もとよりこれを以て佚書言談抄に擬するわけではないが、或はそれの斷片なるやも量らず、或は本朝書籍目録雜抄の部所見の佚書の殘簡であるかも知れぬ。管見ではこの古談抄について論じたものを知らぬ爲に、こゝに思ひよるまゝに紹介をかねて述べてみたのである。今後の研究によつてこの書の性質・外貌が明確になることが望ましい。因みに、古談抄の第三段の説話の末尾には「此事不裁(マヽ)行成卿驗記可書入歟」と記してあつて、行成卿驗記なる書名が見えてゐるが、これもいかなるものであるか識者の御教示を俟ちたいと思ふ〈尚、大江匡房の朗詠江注には「とのもりのとものみやつこ心あらばこの頃ばかり朝ぎよめすな」の和歌に「件哥有兩説或曰朝忠納言所讀云々子細見於行成記」と注して行成記なる書をひいてゐるが、これは彼の日記權記をさしたものでない。いかなるものであるか不詳ではあるが、古談抄にひく行成卿驗記とは又別のものでなからうかと思ふのである。〉

以上は本書の通讀にあたつて思ひ得た所七則をえらんで些か私見を記してみたのである。他にも若干追補すべき箇條もあり、殊に國文學書關係にはそれが多いが、すべて觸れぬこととした。尚、この書については山岸徳平氏の書評があり〈國語と國文學第十四卷第六號所載〉山田孝雄博士の「博雅三位の笛譜について」〈國學第六輯〉などがあつて、いづれも補足が加へられてあり、共に注目すべきものである。驥尾に附したこの小稿について大方の御是正をお願したいと思ふ。

底本
堀部正二『中世日本文學の書誌學的研究』(全國書房、1948年、pp.182—192.)