古道の闡明の手段として近世以後勃興した古典の解釋、訓詁學は必然に古への精神體得を豫想してゐる。訓詁學の完備はそれだけ古道把握への近づきであらねばならぬ。古典が學問の對象となる事は言語變遷に伴ふ當然の歸結であるけれども、かく古語の本義が時代の隔りによつて晦まされた場合、各時代の精神の經の繋りに大きな障壁が立てられる事を遺憾とする。我國最古の古典の一である日本書紀は純漢文體であるが爲に、それを讀んで我々祖先の暖かい懷の中にまで入つて行くと云ふ感を持つには不十分な所がある。我々が知らんと欲するものは、史實もさることながら古代人の言語に對する感受性、引いては古代精神を表現した言語そのものに外ならぬのである。漢字の辭書的な解釋よりも古代人が用ひた慣用語(我國では大和言葉皇國詞と云はれてゐる)が充當せられてゐる漢字を知り、而して後に慣用語の本義にまで遡る事を要求する。隨つて日本書紀が弘仁年度の講筵を最初として屡々行はれた事は現存の弘仁私記、承平私記等の傳存と釋日本紀に引用せる私記に依つて知られるが、執れも漢籍體である日本書紀を出來得る限り編纂當初の慣用語に還元して訓み釋かんとする努力が第一義的作業であつた。尤もこの書が支那の編年體を取り入れた正史の體裁を整へんが爲の意圖が窺はれるから、元々その當時から全部が國語訓みにされたとまで考へることは穿ち過ぎであるにしても書中所々に漢字に對する國語訓みが割註の形式を取つて備へられてゐる事は何を物語るものであらうか。(書紀の訓註を後世の附加とする説もあるが今は編纂當時に既に存してゐたとする説に從ふ)言語は社會生活の一要素であり集團の制約によつて理解されるものとすれば、言語は集團精神の總和的表現である。而して言語の保存が我國古代の傳誦によるものから、文字依存のより高度な方法へと進んだ時、古代の精神の闡明を文字とそれに該當する訓に依つて爲さんとするのは極めて當然の事と云はねばならぬ。即ち古代と同じ言語を現代人が再現し發音する事は許されぬにしても、古語の態を知る事によつて、こゝに古代人の感情を理解しその時代の精神を把むことが出來るのである。古代に於ては言葉は必ず實の顯はれるものと考へられてゐた。言葉に靈が宿るとする考へは古代人の通念であつた。かくして如何なる所のかゝる言語集團に於てもさうであるが如くに、我國古代に於ては、深遠な思想の展開はなかつたかに思はれ勝である。然しその代りに言語に或る力を寄與せしめて、個人或は團體の感情の湧出を俟つのである。祝詞も壽詞も呪文も皆これに類するものであつた。隨つて時代精神の弘通の爲には言語の弘通保存が上代人に考へられた重要な事項であつたと思ふ。言葉の傳誦を以て唯一の國語保存の手段とした我國へ漢字が將來された時それが驅使に相當自由の域に達した古事記撰録時代に於ても、撰者安萬侶はその序文に『上古の時言意竝にすなほにして、文を敷き句を構ふる事字に於て即ち難し』と云つて、語り傳へられて來た我國の慣用語は漢字に依つて表はし難い事を述べてゐるのである。かゝる序文の中には史實を傳へんとする以上の努力が古語の保存に向けられんとしてゐる撰者の意圖の包藏するのを思はせるものがあるではないか。更に『已に訓に因りて述ぶれば、心ことばに及ばす』とあり只漢字の辭書的の解釋のみではことばの眞の姿に入り込む事は出來ぬことを嘆いてゐる。然るに更に語を次いで『全く昔を以て連ぬれば事の趣更に長し』とあるが、この序文の意は慣用語そのまゝを保存せんとして音表文字を用ふれば文體が長くなる事を云つたものと見られるが、別にそれが煩瑣な事として回避し度いと云ふ意向はその序文中には窺はれない。こゝに古語保存に効果的な綴字法として假名書體を古事記の撰者は認めてゐたものと考へてよいであらう。然し假名書のみに依つては次の時代に命脈を絶つた古語即ち死語はその原義が失はれて求める事が困難となる恐れがある。例へば古事記の本文を繙く時傳誦されたと思はれる言葉を假名書體としたものと認められるのであるが、それ等の語は今日その本義を明瞭に把握出來ぬものとなつたものがある。上卷に『久美度に起して』とあるクミド 下卷の『其猪怒りて宇多岐依り來』のウタキ等の意味を今日的確に解釋を下し得ないのである。この憂ふべき現象を撰者は豫想せずして、看過してゐたのではなからうか。それと共に漢字渡來後の記録への過度の信頼が古語の保存を阻け、漢字使用の隆盛と共に一方起るべき事は、古語の消滅であつたと考へる事が出來よう。古語拾遺の序文に『古之世未㆑有㆓文字㆒、貴賤老少口々相傳、書契以來不㆑好㆑談㆑古』とあるのも文字と古語の消滅との關係を物語るものとして注目すべきである。古事記の序文に依れば撰者はかゝる危險をさまで豫想してゐなかつた樣であるが第三に取つた方法が圖らずもその危險を防ぐために効果があつた。即ち已を得ず漢字を以て心をあらはさうとしても、若しその心が把み難いと思はれる場合には註を以てすると序文に述べてゐるのである。『即ち辭理の見えがたきは註を以て明かにし』とあるのが第三の古語保存の爲に取つた方法である。例へば、高天原の註に於て高天原〈訓高下天/云阿麻〉とある如くアマと云ふ慣用語に『天』なる漢字を使用したがその心を把握するにはアマと訓まなければ辭理に徹しないと云ふのである。こゝに注意しなければならぬのは註を以て明かにし云々とありながら今日の如く意義を解釋する方法を用ひてゐないことである。即ち辭書的解釋はなされてゐず只漢字に對する國語訓みを以て註と稱してゐたのである。上古に於ける註と云ふ概念は國語訓みにする事を以て事足れりとしたものであつた。この方法だけで意味が把握出來る事をこの序文の一節が物語つてゐると云つてもよい。少くとも文字を讀み得た上代人ならば音表文字の配列、即ち假名書體で意味が充分取れたと考へてよいと思ふ。さう考へなければ、只漢字を國語訓みにせしめたのみで註と稱して晏如たり得た筈がないのである。この事は尚古事記撰録時代に於て語り傳への惰性が存して當時の人に耳を通じて事を悟る方の働きが優れてゐた事を物語るものと思ふ。而もそれと同事に言語の保存そのものに重點が置かれた事をも見逃してはならぬ。上代の慣用語には力強い語感がある樣に思はれる。それがその特質であり傳誦性の語の持つ力強さであつたのである。兎角訓註が古語の保存に大きな貢献をした事は爭はれない事實であつた。今述べて來た訓註なるものはその體裁の上から云つて、奈良朝から平安朝初期中期にかけて種々の古語の保存の書態が試みられた中の一部分に足ぎないのである。古語保存に待立つた書態とは如何なるものがあつたか。私は次の如く大別し得るものと考へてゐる。
これ等の書式が慣用語の面目を保たしめるに大なり小なり効果のある體であつたと思ふ。その中で(A)の(ロ)の(一)が古事記の撰者が強調した書式であるが、この書式をもつと押進めて効果を齎らしめたのが(A)の(ロ)の(三)の體即ち訓點が施された漢籍體のもの即ち點本であつた。筆者の主として述べんとするのは訓點の中でもその創始時代に出來るだけ近い古訓點の事である。
古訓點は内典にも外典にも施され、その書かれた内容から云へば日本書記を除けば他は全く外來思想のものゝ取扱ひであるが今こゝに外來思想の表現をその當時の國語を以て如何に苦心してなしたかを見る時音讀の場合と異つた日本的思想の香を感じ得られるのである。
殊に岩崎家架藏の舊鈔本日本書紀(吉澤博士著國語國文の研究に所載された―尚書及日本書紀古鈔本に加へられたる乎古止點について―に於てその加點の古いものを一條天皇の頃のものと推定されてゐる)に付せられた訓點を訓み下す時は、今日に於ける漢籍の訓下しとは著るしく趣を異にした語感を以て迫つて來るのを覺えるであらう。左に岩崎家本日本書紀の推古紀の訓點を訓み下しにして例示しよう。
元年春正月壬寅朔丙
辰 佛舍利 法興寺 刹 柱 礎 中 置 。丁巳刹 柱 建 。夏四月庚午朔己卯廐 戸 豊 聰 耳 皇子 立 皇太子 爲 。乃 録 攝政 萬機 以 悉 委 焉。橘豐日天皇第二 子也。母 皇后 穴 穗 部 間 人 皇女 曰 。皇后懷姙開 胎之日 禁 中 巡行 諸司 監察 。馬 官 至 乃 廐戸 當 而 勞不 忽 産 。生 能 言 聖 智 有 。壯 及 一 十人 訴 聞 以 勿失 能 辨 兼 未然 知 。
とあり尚語彙に少しく例を擧げれば
など古語の面目を傳へてゐるものであるが殊に薨の訓方に カムサリマシヌ ミマカル ミウス の三通りを以てしてゐる事は施點者の愼重な態度を窺ふに充分である。この中に施された訓が奈良朝の慣用語である事に誰しも氣付くのであるが、その訓と共に語の配列が上代のそれと等しいものである事に氣付くであらう。この施點者の態度は日本書紀であるが爲に取られたのではなく、當時一般に漢籍を日本的な語感に沒し込まんとする施點者の熱意の現はれであると思つて差支へない。延久五年加點の舊鈔本史記孝景本紀(大江朝綱の曾孫大江家國の加點)の冒頭にも
孝景
帝 孝文之中子也。母 竇太后。孝文 代 前 后三 男
として尊者に對しては敬語を用ひてゐる。前記岩崎家本舊鈔日本書紀も、この孝景本紀も乎古止點は博士家の菅家點が付せられてゐる。菅家と云へば道眞を祖として文章院に於て所謂和魂漢才を指針として學生を養生して居つた學問の家柄であることは衆知の事であるが、その菅家の何人かによつて創始された點であると推定されるが故に加點にかうした愼重さが表はれるのは當然と云はねばならぬ。常山樓筆餘〈三〉によれば
江家次第に御書始の事を志して御前に立書案御注孝經御點圖角筆を置て侍讀の臣を奉ると見ゆ。今も猶此の儀有とかや。中略、但し此の讀法は菅江二家や剏めたまひけん。苦心探索してはじめたまひしと覺ゆ
とあり、點圖を目安として御注孝經の御進講をしたのであるが『菅江の二家がその讀法を苦心探索してはじめたましひと覺ゆ』とみる如く語の配列を古法に準じて訓み下さんとした努力も、必ず苦心の存する所であつたらうことは想像に難くない。江家次第に寛和二年の例として
寛和二年(例)侍讀〈參議左大辨/大江齊光〉尚復〈大學頭忠輔朝臣坊學士〉御書御注孝經〈中畧〉
書御座前御書案 藏人式〈并〉新儀式如此
とあり、大江齊光が御注孝經に加へた點が延久五年點孝景、孝文、呂后の三本紀に加へた點と同一種類のものであつたであらうと思はれる。かうした公けの御讀書始にも矢張り點圖を用ひられたのを見ると漢詩文流行の國風暗黒時代の餘波未だ消えやらぬ時代に漢籍を國語訓みにせんとする努力は、かゝる訓點の存在した事に依つて窺ふ事が出來るではないか。古代語の保存引いては古代精神の維持に與つて力があつたものがありとすれば訓點もその効の一片を荷ふべき價値あるものであつたと云へよう。この事を裏書する事項として次の例を引合ひに出さう。『江談抄〈六〉長句事』の『和帝景帝光武紀等有讀消處』の條に
後漢書、和帝紀、讀消處有一行、史記景帝太上皇后崩五字讀消、又後漢書、光武紀代祖光武皇帝代字可讀世音之云々
とあつて、『史記景帝紀太上皇后崩』とあるのは孝景本紀に 及竇太后行 前后死 とある箇所であつて當時朝廷で御不例あらせられた御方を憚り奉つて右五字讀消となつたのであるがこれも侍讀の御進講の際の愼重な態度を物語る一事實である。
翻つて釋氏の訓點は點本史上如何なる地位にあつて又如何程古語保存の役割を果し得たか。古訓點の最古のものは既に奈良朝末期のものを見出し得る事は春日博士が指摘せられてゐる所であり、(聖語藏御本央掘魔羅經)文献上手代確實なものは天長五年の聖語藏成實論を最古の點本として平安朝初期には加點は可成り行はれてゐたものと推定出來るのであるが、この時代の發達が淳和帝より文徳帝に至るまでの國風暗黒時代に並行してゐた事は、我國語史の上で暗黒時代の風潮を嵯嘆しながらも兎角も僥倖の感なきを得ざらしめるものがある。萬葉集が既に難解の古典と化し、漸次學問の對象としての色彩を濃くして來た程であるから古語の本義を保つ何等かの方便がなければ古代人の語感に觸れる機會は葬り去られる危険に當面するに至つたであらう。尤もその間六歌仙によつて和歌の脈が、又竹取、伊勢物語によつて散文の日本的語脈が繋がれてゐたがそれ等は前の時代の語即ち古語の面目を保持してゐるど云ふには躊躇せられる作品であつた。
かゝる時代に僧侶が師の講義を筆録する際その備忘の爲に或は祕密傳授の方式を以て行つた訓點には、その時代より古い語を以て即ち古語をも交へて漢字の訓に該當する語を萬葉假名又はそれより發達した片假名を以て連らねられてゐるのである。隨つて古語の本義が漢字によつて保存されてゐることになるのである。故にかゝる還境に置かれた僧侶には必然古語を使驅する能力も豐富であつたに相違ない。續日本後紀に興福寺の大法師が 仁明帝の寶算四十歳に達せしめ給うた事を祝ひ奉り、長歌を載せその終りに、
季世陵遲 斯道巳墜 今至僧中頗存古語 可謂禮失者則求之於野 故探而載之
とあり僧侶が訓點によく古語を用ひた事が知られるのである。何故に僧侶に古語を存する事が多かつたか。それは次の理由による事が多いであらう。即ち訓點は前述の如く師資相承の秘密傳授の形式を取つた爲に格式を重んじそれと同時に尚古思想の勃興が促がされこゝに古語を用ひる事を以てその體面を維持せんとしたのであらう。然し更に重要な理由としては次の事が考へられるのである。即ち史記本紀御注孝經等の外典が朝廷に於て講ぜられたと同樣、内典も亦宮廷内に於て講師を招き敷演せしめられた事によつて、外典の講筵と同じくその訓下しに愼重な態度が要求せられた事が古語保存の理由の一に成つたのではないかと思はれる事である。例へば現存諸家點圖に所載されてゐる法相宗所用の喜多院點を以て加點した點本を多く殘した眞興(一五九四/一六六四)は維摩會の講師として推擧された事が史實に見える。僧綱補任によると
長保五年 講師眞興 〈法相宗興福寺(六十九)/六月十六日宣旨〉
寛弘元年 眞興 〈正月十四日任權少僧都御齋會御幸賞 依當會講師/薬師寺最勝會結願日辭退(七十)〉
とあり
又三會定一記には
長保五年 〈六月十六日/宣〉講師眞興〈興福寺/法相宗〉(七十)
件眞興年來閑居於勸學寺而長者在丞相(道長)爲果舊願以六月十六日被下講師宜旨 則御自手書寫金泥新古維擥無垢穪兩部經九卷中略
六年(寛弘/元年)春宮中光明會殿論義之座 被任權小僧都
とあり、これによれば御堂關白道長が舊願を果さん爲の維摩會を遂行し、その翌年寛弘元年正月宮中御齋會が行はれたのである。日本紀略にも『寛弘元年正月八日癸巳御齋會 十四日巳亥同終 天皇幸太極殿以講法橋眞興任權少僧都』とあり御齋會に侍候した眞興が如何なる態度を以て臨んだかは想像に餘りあるものであつた。同じ喜多院點を施した點本の施點者として名のある元興寺の明詮(一四九九/一五二八)も佛教人名辭典に『嘉群二年維摩會の講主となり元興寺に住して空宗を敷演す。三年正月大極殿の講帥となる。二月天皇高座を清涼殿に設け四宗の碩徳を講じて金光明經を講ぜしむ。三論は實敏、華嚴は正義、天臺は圓修其選に當り法相宗は師之に任ず』とある如く法相宗の碩學明詮も太極殿に候して自己の蘊蓄を傾けたであらう。明詮も眞興も各自の點法を以てその抱懷するものを吐露した事は想像に難くない。今日喜多院點が最も正確に原形を保存してゐる事はその點法の苦心の結晶であつた事が分る。眞興の加點によつて成唯識論の訓法が辛うじて保存されたと云はれる位であるからその點の重大さが窺はれるのである。苟くも宮中に於て講ぜしめられた佛典である以上、我國古有の語感を交へた訓法を取らんと努力するに相違ないのである。明詮、眞興がこの點に留意した事は察せられる事である。從つて釋氏の用ひた古訓點が秘密の格式を保つ爲の體面が古語の保存を促したと同時に、施點者が朝廷に於て講義をなした事によつても促されたものと考へざるを得ない。
その他の點圖に就いては圓堂點は宇多法皇の御歸信を辱うした仁和寺の益信より出たものと、吉澤博士の御考證があり(吉澤博士著 國語國文の研究所載 眞言宗の乎古止點參照)、 宇多法皇によつて圓堂點が確立されたのである。香陵寺點は 宇多法皇に密灌を受けた寛空の創始した點であり、遍照寺點は寛空に密旨を受けた寛朝信正の創始點である。かく平安朝より他點を壓して盛んとなつた前記乎古止點が國粹の御精神顯著にましました寛平法皇からその源を發してゐる事を以てそれら訓點が多分に日本的傾向の盛られた訓法である事を律し得べきである。先に述べた如く『僧中頗存古語』とあるのも僧侶自身の空虚な自負とのみ斷じ去るわけにはいかないであらう。釋氏の古訓點の中に於て記紀萬葉集或は祝詞に表はれた、而も平安朝の物語の語脈に於ては既に命脈を絶つたと思はれる語が訓點に用ひられてゐる數は可成多数に上つてゐる。中でも祝詞に用ひられてゐる、淨(キヨマハル)の語が佛典の古訓點例へば三寶院藏大日經疏(大治五年點と推定)等に盛んに用ひられてゐる本は神佛の思想的差別を超越した事柄として興味深く思はれるのである。又文體に就いても同樣に云へるのである。西大寺本金光明最勝王經の白點卷十の一節を引用して見よう。(同經は喜多院點の祖と目せられるものを以て加點せられた平安朝初期のものと推定する。九州帝國大學法文學部十周年記念哲學史學文學論文集中の春日博士の西大寺本金光明最勝王經の白點について參照)
時 王子大 愁苦啼 泣 悲 歎 (啼 泣 悲 歎 生 )即 隨 還 虎 所 至 弟 衣服 竹 枝 上 在 見 。骸骨及髮 處 在 縱横 血 流 泥 成 其 地 汗 霑 。見巳 悶絶 自 持 能 身 骨 上 投 久 乃 蘇 得 。即 起 手 擧 哀 號 大 哭 。倶 時 歎 曰 我 弟 貌端巖 父母 偏 愛念 。何 云 倶 共 出 。身 捨 歸 父母苦 問 時 時 我等 如何 答
この文を見る時語の配列が上代のそれと可成りの接近を示してゐる。
又尊者に對しての敬語も漢籍體なるが故にと云ふ理由で忽ろさかにされたことはなかつた。例へば同經には『三人の子』を訓んで『ミハシラの子』としてゐる所がある。大日經畧疏の文を引用すると
我
親 先 佛 此 法 授得 (卷十一)尚
能 身 捨 師 奉 何 况 當 怯{ ルルトコロ}有 (卷十三)
彼 如來衆 此 秘密 中 念 所 知 (卷十七)
時 秘密主佛 所説 聞 未曾有 得 。白 言 希有 世尊 。(卷十九)
右の如きは今日の漢文訓讀法とは餘程趣を異にしてゐることが分るであらう。東條義門もその著山口ノ栞の中の『漢文の訓』の條に於て
前畧 用言ならでもふりぬる世の訓といふものにはいとうるはしきことおほし。於の字をうへとよみ故をかれとよめる類はみやひかなるものなるを、今は耳とほく覺ゆるまゝにそのいとよきことをば、かヘりてめゝしくみたてなき事のやうに思ふめり。そも此の訓讀といふものむかしよりやう〳〵にさとびて、儒書の嘉點といへるに至りてはむげに皇國詞とも聞えぬことさへおほし。
と歎いてゐるのである。嘉點とは山崎闇齋の創始による漢文訓讀の點であつて今日の訓讀の先驅をなしたものである。それをはじめとして後藤點、一齋點が生れ現今の漢文訓讀法の如く全く古い國語訓みのみやびさを抽き去つたものとなり終つた。それは意味さへ通ずれば事足れりとなす訓法であり、古語の保存は及びもつかぬものとなつたが、それに對して、古訓點に古語の用ひられてゐる事によつて些かなりとも古代の精神に近づき得るよすがとなつた事を思ふ時その効を充分に認めなければならぬ。日本書紀の如く我國正史の漢籍體に對してでなく外來佛教の思想表現に對しても古訓點の施點者が國風を重んじた事の中に深き意義を見出すのである。