舊鈔本史記孝景本紀第十一に用ひられたる訓點に就いて

このたび京都帝國大學文學部創立三十周年記念出版として、舊鈔本史記孝景本紀第十一が影印され、それに符せられた解説は那波先生が御懇切な論に委曲を盡された事であるから更めて説明する迄もないが、今此の舊鈔本に用ひられた訓點を考察するに當り屋架下屋の卑見の交ふるのは已むを得ない事である。

本文は長さ曲尺、八尺五寸六分、縱九寸七分の斐紙に一行十五字内至十七字を以て填てた卷子本であつて、その字體は甚しくは讃するに足るべきものではないが、王羲之より出でて居り、平安朝末期の風を存して個性に可成の練達より來る雅韻を認められる。而して此の鈔本は古來より「史記集解」或は一般に「集解本史記」と云はれ、二行に書かれた割註は、南宋の中郎外兵曹參軍斐駰の加へたものである。本文に符するに、この稿に述べるべき朱墨の乎古止點并びに假名あり、外に音註、補字、或は欄外の註等があるがこれ等は今詳にする限りでない。この卷は史記本紀中に於て、短章に屬し、太史公が史論の奧旨を窺ふに未だ充分でないが、結尾の贊語片言能く要約をなし、硬諤の裁斷を下した事は、史記評林に引用せる漢書舊儀註に

太史公紀㆓景帝本紀㆒、極㆓言共短㆒ 及㆓武帝過㆒武帝怒而削去。

とあるによつて知られるであらう。

今左に本文とそれに用ひられた乎古止點并びに假名を便宜書下しの體に示しつ、掲載することゝする。

孝景本紀第十一   同年同月受訓了
          同月同日於燈下合了
 延五暮春十二晡時執筆同剋書了
       學生大江家國
 康和三年二月廿日晡時見合了 家行之本也
 同年同月同日子時許受了
 建久七年十二月十九日於燈下讀移了(花押)

因にこの鈔本の類本である、呂后本紀第九(毛利公爵家藏)及び孝文本紀第十(東北帝國大學藏)の奧書を左に示す。

呂后本紀 第九
           同年同月廿九日點合了
   延五正廿四辰書了
   延五四一受訓了
       學生大江家國
   康和三年正月廿七日以秘本見合了 家行之本也
   同年同月廿九日讀了
   建久七年十二月十八日黄昏讀移了
                 拾遣(花押)
孝文本紀第十
   延久五年四月四日受訓了
   延五二七夜於燈下書了
   同年同月九入巳剋點合了
         學生大江家國之本
   康和三年二月三日〈已時許/以秘本〉見合了 家行
   同年同月十二日未剋許訓了
   建久七年十二月十九月 黄昏讀移
   了
                  時通
   建仁二年十月六日 於燈下
   一見矣(花押)

右の識語により孝景本紀に、延五暮春とあるのは延久五年であることが分り、又其の筆蹟と本文欄外註及學生大江家國なる自署のそれとは同一人の蹟なりと見られるから、家國が延久五年にこの鈔本の本文を書寫した事は斷言出來るのである。

延久五年は後三條天皇の極年であつて今より八百六十三年の往昔に當り、かゝる長年月を經て今に殘存し得たことは同好の士に取つて幸甚なりと云はねばならぬ。

此の鈔本を書寫した大江家國の傳は諸籍に見えす、只「尊卑分脈大江家の系譜」に主計助として所載せる家國を擬し得られるのみである。左に家國を中心とした人物の血脈關係を尊卑分脈より引用すれば

家國と並び載せられてゐる通國の事に就いては「大日本史卷二百十六大江朝綱傳」に「朝野群載」を引用して、

佐國子通國亦有㆓才思㆒受㆓業藤原明衡㆒

とあつて通國が本朝文粹の撰者明衡より教を受けたと見られるのであるが、それは何時頃であつたかは不明である。明衡は「本朝續文粹」に治暦二年九月に文章博士を罷め、同年十二月に薨じたことが見えるから、或は通國の業を受けた時代は延久五年より相當溯る頃と考へられ尚又延久五年に家國が未だ學生とあるよりして通國は家國の兄と推測するのである。

更に家國の父佐國は萬葉集の次點者である事は云ふ迄もない。「朝綱傳」に「百錬鈔」「扶桑略記」を引用して

澄江孫佐國頗善㆓詩文㆒ 長久四年興㆓惟宗孝言、源時綱等㆒試㆓於校書㆒

とあり「朝野群載」を引用して

仕㆓後朱雀、後冷泉、後三條、白河四朝㆒ 爲㆓掃部頭㆒ 兼㆓越前權介㆒

とある章を參照して、假に佐國が六十歳前後に、順當の年暦を以て、白河天皇の御讓位あそばされた、應徳三年(一七四六)に致仕したとすれば、延久五年(一七三三)は四十九歳前後となる。因に六十歳で官を罷めたことは憶測に足ぎぬが、大江匡房が、嘉承元年中納言を罷めたことが、「大日本史卷三百七十四 公卿表」に見え、六十六歳であつたことが分るのである。依つて佐國も順當な年暦は或は六十歳以上であつたかも知れぬが、さまでの詳な推測は困難な事である。

尚佐國の年輩推定に暗示を與へるものがある。「扶桑略記第二十八」後朱雀天皇 長久四年九月九日の條に

召㆓文章生大江佐國、惟宗孝言、源時綱、學生藤原國綱於弓場殿㆒ 給㆓勅題㆒試、禮儀爲㆑品 七言十韻。是則進士申㆓秀才㆒ 學生申㆓給料㆒ 仍有㆓此試㆒

と記載され、前記「大日本史朝綱傳」に引用した「百錬抄」と年月は一致するが「百錬抄」本文第四を見るに後朱雀天皇の條に

長久四年九月九日 召文章生佐國己下以於弓揚殿進試詩 進士題禮義爲器 七言十韻 毎句置前漢儒士名 學生題善以爲寳 七言十韻毎句用禮記篇名 是秀才給料等試也

とある年月一致し、事項は略々異同はあるが共に佐國が文章生時代課試されたことを傳へてゐる。而して佐國が四人の筆頭に置かれるよりして此等四人中、最年長、最優秀なりしことを察せられるとせられた那波先生の御説は蓋し當を得てゐるであらう。長久四年には佐國は前記年輩計数より推して、二十九歳前後となり、佐國が文章生時代の年齢にふさはしいのである。「大日本史」引用の朝野群載の文と、「百錬抄」「扶桑略記」の文より推した佐國の年輩が略々相應じたのである。而して前記の如く佐國が延久五年に、四十九歳前後とすれば、その次男と思しき家國は、延久の同年は二十歳を出ずるも多くはない年輩となり、これ又學生とある肩書身分の年輩に合致するのである。

此處にこの鈔本を書寫した學生大江家國は尊卑分脈所載の家國とするに略々誤りのない推定を下したのであるが、この「尊卑分脈」所載の家國が、史記鈔本を書寫したとする積極的な資料はない。但し史記の集解が御注孝經と共に諸家に於て屡々講ぜられた事は見られるのである。例へば「台記」久安六年四月廿八日の條に

此日皇后宮權大夫〈藤原兼長頼長/子十三歳〉

初漢五帝本紀(中略)

式部權少輔成佐〈束帶二藍下重今且仰/不可用青朽葉之由〉取㆓副五帝本紀於笏㆒ 參上着座置㆓笏及書㆒ 更膝行就㆓机下㆒ 披㆓在㆑机之書㆒ 退㆓後座㆒ 取㆑書 披㆑之 讀曰史記乃集解乃序、弟子傳曰、史記乃集解乃序、權中納言忠基卿 起座取㆑祿

とあるが、更に孝景帝の記事の現れたものを引用すれば「江談抄長句事」の「和帝景帝光武紀等有㆓讀消處處事㆒」とある所に

後漢書、和帝紀 續消處有一行 史記景帝太上皇后崩五字 讀消 又後漢書 光武紀、代祖光武皇帝代字可讀世音之云々

とあつて、その引用文の書かれた年次不明の爲積極的根據を與へないのが遺憾である。史記景帝紀太上皇后崩とあるのは、恐らくは、孝景本紀

及竇太后行 前后死

とある箇所であらう。當時我朝に於かせられて、御不例のましました爲、右の五字讀消の愼重なる態度で書を講ぜられたものと思ふ、これとても家國がこの鈔本を書寫したと思はれる資料としてゞはなく、當時史記が廣く讀まれてゐた事實の一斑を示すに足ぎない。


次に康和三年の識語の自署が示す家行は、尊卑分脈に於て、同名の二人を藤原家に見出すのである。一人は藤原南家、武智麿公流である。左に尊卑分脈第三所載の系譜を掲げる。

即ち、位は從五位下にして、勸學院學頭に任ぜられた家行なる人である。その父元眞の兄弟公經の妻は、大江朝通の女なる事が分る。而して朝通は前記大江家系譜によれば家國の叔父に當る人である。これによつて家國とこの家行とは親密とまでは云はすとも、血脈の相通ふものがあることを知り得て、この鈔本傳授の理由も成立つのである。而して康和三年(一七六一)は家國は四十八歳前後となり、その系圖より推して、家行は家國の子公國と略々同時代或は少し年齡を重ねてゐるものと見られるから、康和三年には家行は三十歳前後となるであらう。

然しながら尊卑分脈は同名の人物を所載する事多く、この揚合にも他に康和三年識語に見える家行と思しき人が、藤原北家道隆公流の系譜の中に存するのである。尊卑分脈第二によれば

三川守從五位下とある家行なる人である。而して基隆の薨じた天承二年(一九七二)は五十八歳であるから康和三年(一七六一)は二十七歳の時であり、この基隆と同時代の家行も略々その年輩であつたことが分るのである。然し武智麿公流の家行の如く、家國との血脈關係は同じ藤原家としては、疎遠であるから、傳授の經路を充分に證明すべきものはないが、尚憶測を逞しうすれば全然なしとは云へぬのである。それは、建久七年の識語に見える時通も亦三川守家行と同じ北家の高倉流の人であると思はれるからである。左に尊卑分脈第二より系圖を抄出する。

右の系圖に見える通り、時通の母は藤原俊成卿の女である。重通は永暦二年(一八二一)に卒したとあるのみで年齡は明記されてゐないが、若し天壽を以て終つたと假定すれば、その孫に當る時通の建久七年(一八五七)の年輩は二十歳前後となり、この鈔本に加點し得るに足る頃である。

時通は、前述の三川守家行と同じ藤原北家の流であるから三川守家行よりこの時通へ授けられたと解するのが穩當の樣である。然しかく決定すれば、家國と親屬關係にある、勸學院學頭になつた家行へは傳へられなかつたとする棄てるに忍びない結果を招來するのである。然し尚卑見を述べて論駁の結着する所を考へさして頂きたい。


本文孝文本紀第十 孝景本紀第十一 と書出のある右下に、前者は紙の擦切れの爲に、後者は裝潢の爲であらうか、縱半分宛現れてゐる二つの文字が認められる。呂后本紀第九にはそれが見られない。元書かれてあつたのが切り取られたのかも知れぬが斷定は出來ない。これは人名らしく識語の自署以外の人の筆蹟であらう。而してこの不明瞭な文字は、この鈔本に就いて考へられる範圍に於ては、二條關白藤原師通公の自署「師通」の文字と思はれる。師通公は、藤原北家の直流であることは云ふまでもないが。こゝに便宜上、尊卑分脈第一より師通の系譜を抄出し、更に重ねて、同じ北家なる三川守家行、藤原時通、及び、尊卑分脈第二より藤原俊成の略系譜を附加して、此の鈔本傳授の經緯に結びを付けるべく説明を進めて行きたい。(後頁系譜參照)師通公の傳は今更詳述する迄もない。簡略に從つて要點を擧ぐれば「江家次第二十」攝政關白家子書始の條に

即ち、延久四年十一歳にて父師實の殿華山院にて五帝本紀の講書を初めて受けたのである。更に「大日本史卷百廿四同公の傳」を引用した、「外記日記」に公の事を敍して

師通禀性豁達 好㆑學不㆑惓 博㆓通百家㆒

とあるから、公の幼時に受講された五帝本紀の強い印象が、好學の公が史記への憧憬となつて、この集解本「史記」を手にされた事は想像に難くない。殊に公は「同記」に

從㆓大江匡房㆒ 受㆑經

とあれば學問上に於て、大江家との關係は深かつたであらう。尚又公は、尊卑分脈の記載する所によれば、氏の長者であつた人である。而して藤原家の私學である勸學院を統管してゐたことは「神皇正統記」清和天皇の條に

氏の長者たる人旨とこの院(勸學院)を管領して、興福寺及び氏の社の事を取り行はる。

とあるにより分るのであるが、この私學の學生と思しき家國(家國が勸學院學生と思はれる證に就いては後に述べる)の書寫した鈔本を閲檢したのではなからうか、その老達な筆蹟よりすれば、公が薨する康和元年に近い時代に物したと思はれるのである。更に、この鈔本が公の手元に藏められ手澤本とされたのではなからうか。勸學院を統管した公より、その手澤本が、後勸學院學頭となつた武智麿公流の家行に傳へられたとするのは考へられる事である。こゝに藤原北家の三川守家行は、武智麿公流の家行に比すれば、同じ北家の師通公とは親密であることは前記の如くであつて、三川守家行へこの鈔本が傳へられたとする根據に擧げたのであるが、さのみは考へられぬ。學の傳授は、親よりも、その傳へられる人物如何に依るべき筈である。學識を以て二者を比較すれば、一人は勸學院學頭に迄至つたのであるが一人は只官名を尊卑分脈に記するのみで、左程秀出の士であつたとは思へない。而して更に公の傳を記する「外記日記」に

師通好㆑賢愛㆑士 進㆓文學之士㆒ 黜㆓勢利之徒㆒

とあれば、前二者の中共れへこの鈔本が傳つたかは自明の理であらう。この鈔本が師通より家行へ授けられたのは、師通薨去の年、康和元年に近い頃であつたと思はれる。假に康和元年に授けられたものとするも、家行が校合をなした年迄少くとも三年の年月は經てゐることゝなる。家行が授けられたまゝにして手元に藏してゐた理由は如何に考へたならばよからうか。それは、家國が未だ延久時代の年輩より推して、康和元年は四十五歳であつて存命中と思はれるのである。それが爲に傳へられた鈔本に漫りに加筆しなかつたのであらう。識語に、見合了、とのみあつて加點せず、只校合したに止めた事によつて徴し得るのである。北家師通公の手澤本であつたと思しきこの鈔本が、更に同じ北家頼宗流高倉家の藤原時通の手に授けられた經緯も察知せられるのである。時通は、俊成、定家卿と血脈相通する家通の子である事は前記尊卑分脈の示す所であり、御子左家の學統は時通の心中にも流れてゐたであらう。かく考へる時、好學の流を汲んだ一連の士をこの鈔本の識語の自署が示してゐることになるのである。筆者はこの鈔本の傳授系統を、家國、師通公、勸學院學頭家行、藤原北家頼宗流高倉家なる時通の順に配列せしめたい。

更に奧書と加點の關係に就いて考へるに、朱點は總て家國の筆と斷じて差支へない。奧書唯一の朱書「同月同日於燈下合了」とあるのは家國が書いたものであるからである。次に墨點であるが、これは家行の點は加つてゐない。何故ならば、前述の如く、延久五年と康和三年とは、その距る事僅かに二十八年であるから、家國の存命中と否とに關らず、家行が傳授された點本に漫りに點を加へる筈はないのであつて、他本を以て校合したに足ぎぬ。相青死の右傍に「免他本」とあり、賜民爵一級の民の右に圈點を施して「異本」と書かれ、又率の次右方に「其異」とあるのは家行の筆と斷定出來るのである。時通に至つては、既に延久五年より下ること百二十三年も經過してゐるのであるから、両者傳授の個人對關係は簿く、よつて、家國の點の上に更に、自らの點を加へたであらう事は、奧書に「讀移了」とあるによつてその消息が分るのである。從つて墨點は必ず時通のものが交つてゐるのであるが、こゝに注意すべきは、欄外の註(本文 後二年正月一日三動より衡山國河東雲中郡民疾迄)の走書は、猶本文の書體と等しく、又その筆蹟と呼應して、散漫な墨點の施法よりして共に家國の施したものではなからうかとの疑が起るのである。文教温故に

さて後世もをこと點は朱にて付け、訓讀歸點は墨にて左右に付ける。これを朱墨兩點を加ふと云へり。逍遙院内府の眞跡御注孝經の奧書に、右件本端一兩枚有點予覓他本加朱墨兩點了于時天女第三六十六日 凌炎蒸終功了 都督郎公條 とあり。又或記に、足利庠主寒松吾妻の誤宇を正し、並朱墨兩點を加へしよしも見えたり。當時博士家の朱墨兩點を付けたる書を見し事往々これあり。

として、朱墨兩點を乎古止點と假名に分けて、同一人が加へた例のある事を指摘してゐる。尚考へねばならぬ事は、家國が學生時代丹念に朱點を加へた鈔本を、そのまゝに放置すべき筈なく、或る時期に於て、再び推敲を加へ、或は備忘の爲加へた點のあつたであらうことは想像される事である。墨點の中共れが家國、共れが時通の點であるかに就いては仔細に檢察すれば或程度まで分るであらうが、この勞作は校勘の埓外で、鑑別の際の直觀と、經驗の信馮に俟つことの多いものであるから、確かな判定は避くべきである。然し次の事は云へるであらう。大江家國によつて朱墨兩點が施され、藤原家行は他本を以て校合したに止り、建久七年に、藤原時通が再び墨を以て加點した事である。

以上で鈔本傳寫の大方を述べたつもりである。こゝにその鈔本に用ひられた、乎古止點を只朱墨兩點に大別して掲げる事とする。

右の點圖の單星點は、點譜所載の菅家經點である。大江家國が加へた點ならば江家點が施さるべきであるが事實はこれと乖離してゐる。點譜所載の江家點の單星點は左の如くであつて

菅家點とは左邊の點が異つてゐるのである。この江家點を施さずして、菅家經點に近い點を施した家國は、菅家點なるものを、玉條の如く遵奉してゐたであらうか。その間疑が挿まれるのである。而して是の疑は點鮎の動揺に就いて考察する時更に新しい問題を起すのである。

先にこの鈔本に用ひられた乎古止點を調査して、スに二點ある事を指摘して置いた。即ち、朱點に、とあるのがそれである。而して、墨點にはが一點ある。乎古止點を表してある詞辭は一つであるべき筈である。然るにかく二點の存する事は、一方の點を、他に移さんとする施點者の意圖の現れと見る事が出來るであらう。朱墨兩點の動揺傾向を檢するに、朱點に於て單星點のスを、線點に移さんとする傾があらはれ始め、墨點に至つて全線點に移し得たのである。今少しスに二點あるを認めた經過を簡略に述べさして頂き度い。

筆者が初め孝景本紀に使用せられた乎古止點を調査の際、スに二點あるを避けて、線點をセとし、(乎古止點の施法をそのまゝにして示し度いのであるが印刷の不便を慮り文字を點圖を以て圍みそれに點を施して以て施點の箇所を示すことゝした以下同樣)と訓ましめ、又、とある點もセと考へ、其他サ行變格活用の動詞に否定助動詞ズの承接した場合、例へばとある、サ變格用動詞の活用語尾セを乎古止點の表してある詞辭としたのである。その他の場合はサ變活用の例のみで、例へばの如く訓み、活用語尾を乎古止點とし、更に完了助動詞を補讀せしめて完了態としたのである。孝景本紀に關する限りの點を、セとして總てが通ずるのであつた。然るに、同類古鈔本、呂后本紀、孝文本紀に於て、その點をセとする事の出來ぬ場合に逢着したのである。例へば(必要以外の訓點は略す。括弧内の呂、文は夫々呂后本紀孝文本紀よりの抄出である事を示す)

これ等はセと訓む事が出來ぬ。更に注目すべきは、單位點、線點兩樣共に朱を以て施されて居り、單星點のスを無視せんとする傾向を示してゐる例がある。即ち

とあつて、家國が朱で加點した際、既に單星點を廢棄せんとする意圖を有してゐたことを物語るものである。而して前述の如く、家國には後年の墨點があることを推測した。その加點の際には全く單位點のスを用ひすしてその點を線點に移し終へたことが次の例によつて分明にされるのである。即ち左に抄出した例に於て、すべて單星點は朱で、線點は墨である。

この線點は、家國か時通か共れが加へた點であるかに就いての識別は充分になし得ないが、必ず兩者の加點の交錯してゐる事は、墨の濃淡筆勢によつて察せられる。墨點に至つては、家國、時通、兩者とも單星點スを全然用ひなかつた。

がセを表す點でない事は、僅かであるが次の二例に別にセなる詞辭が存することを以て明となつた。即ち

とあるのがそれである。下つて古文孝經(故内藤虎次郎氏藏仁治二年點)にこの點法を踏襲した場合

と明かに見られてなる點が別に存してゐるのである。尚清原宣賢尚書點(京都帝國大學圖書館藏嘉應三年點)二點存してゐるが線點の場合は否定助動詞の終止形にのみ用ひられてゐるのである。かゝる場合を考慮してこの鈔本の一方のスは濁音のズでないかと考へたが、さうではなく二點全く同一であつて、スに二點あるを認めざるを得なくなつたのである。

此處に於て、別點を起さんとした意圖が施點者に働き始めた誘因を三つ擧げることが出來るのである。

甲説
この單星點スは逗點と紛れる恐れがある爲廢止せんとした事。殊に菅家點以外の點にその傾向が著しい事。
乙説
延久時代江家點がなかつたが爲、家國は自家點を創始せんとした事。
丙説
菅江兩家の學問的對立により、別點を起さんとした事。

右の中、乙、丙、兩説は前者を、間接の誘因とし、後者を直接の誘因とする事が出來て、二説相離して論すべきでなく、唇齒の關係に在るのであるが、説明の便宜上分離せしめたことを諒とされたい。先づ甲説に就いて述べる事とする。

甲説

釋氏點に於ては、單星點の返點が返される文字の左隅下に符せられてゐる。然しかゝる返點は博士家點に於ては、テ、と紛れる恐れがある爲であらうか用ひられてゐずして前記の點圖に掲げ示した如き別の線點即ち鴈點が用ひられてゐるのである。從つて返點か乎古止點かに就いての判別の煩らはしさは博士家に於ては除却されたのであるからテなる單星點は何の忌憚する所もなく、他の單星點と異り、字體より遙かに離れて用ひられてゐるのである。博士家點に於ては、比較的混亂を回避する樣な傾向があるが、この事實を裏書する例が釋氏點にも見られるのである。一例を擧げると

釋摩訶術論通玄鈔 卷第三(東寺藏大治三年點)の單星點は

となつてゐて、博士家點に類似してゐるが、紛はしいスは回避されてゐる。而して逗點は二つの文字の中間即ち孝景本紀に用ひられてゐると同樣に點ぜられてゐる。これを見ても、文字下底中央の點の回避傾向が、博士家釋氏とも一般であつたかの如く思はれるのである。然し乍ら、この甲説は未だ概念的考察の範圍を脱し得ぬものであつて斷定は保留すべきものと思ふ。黄帝内經太素點 二十六卷(仁和寺藏、仁安年間の移點者頼基は續群書類從系譜に、侍從三位正四位下典藥施兼帶侍醫典藥頭從四位上とある人で、猶侍醫としての博士家の點である)の單星點を見るに

右の如く、菅家點以外の博士家點に於て回避の傾向があると私が推測する下底中央の點が未だ存して居り、更に逗點も二つの文字の間に點ぜられてゐるから、二點の判別の煩はしさは、博士家點の一例にも存して居るのである。この例は、甲説の根據を甚だ薄くするものであることが分るであらう。

乙説

この項と、次に述べる丙説との問題の中心を、何が故に大江家なる家國が點譜所載の菅家點を使用しなければならなかつたかに就いての考察に關聯せしめつゝ述べて行きたい。然る後に、別點を起さんとした意圖の經緯は自ら氷釋し得られるであらう。

こゝに甚だ端的であるが、解決の指針として一つの問題を投げ掛けたい。即ち家國が菅家點を使用しなければならなかつたのは、當時江家點が無かつたからではなからうかと云ふ事である。今日まで江家點は、その存在を疑はれる事なく認められて來てゐるのである。「常山樓筆餘」に

江家次第に御書始の事を志して、御前に立書案御注孝經御點圖角筆を置て、侍讀の臣奉ると見ゆ。今も猶此儀有とかや、中略。但し此の讀法は菅江二家や剏たまひけん。苦心探索して、はじめたまひしと覺ゆ。

とあり又、江村綬の授業編にも

サルニテモ中古朝家の文學サカンナリシ時ノ點法ニ今ヲコト點ト稱スルモノアリ、又菅家江家ナド各々其點法アリ、其ヲコト點ト稱スルモノ今ノ訓點ニ比スレバ大ニ古雅省略ナリ。

とある如く論なく、江家點の存在を認めてゐるのである。その他の諸點譜に江家點として載せてゐることは實在を是認しての事であるから多言を要する迄もないであらう。

筆者は延久以前に於て江家の識語のある點本に接した事はない。然し前記「常山樓筆餘」に引用した、御讀書始の事は「江家次第」によれば、寛和二年の例である。

侍讀は定基の父大江齊光であつたことが分る。寛和二年(一六四五)は延久五年(一七三三)に先立つこと八十八年であるが、如何なる點を用ひたか分明でないのは遺憾なことである。次に延久以後に於て、江家の識語のある最も古い點本は、奧書に

承治二年三月廿七日以彈正弼大江朝臣(以下闕)

とある圖書寮本日本書紀第廿三點であつて、これに使用せられた乎古止點は單星點のみであるが、點譜所載の菅家經點である。吉澤先生は大江朝臣を以て匡衡ならんかとせられてゐる。若しさうであれば縱令當時甲斐權守強正少弼の位に在つた(公卿補任による)と雖も、匡衡ともあらう學識の人が、江家點を用ひず、他家の點なる菅家經點を假借使用した理由の説明に苦しむのである。この解決は暫らく保留して推測を續けさして頂く。尚又江家點なる名稱を延久以前は勿論、以後に於てもそれを距る事近い代時には全く接した事がない。漸く謙倉時代の書寫と認められる京都帝國大學國語國文學研究室所藏の點譜に諸點の所屬されたる各氏諸家使用の點の名稱が見られ、識語のある最も古いものは、同大學圖書館所藏の平松本點譜に

本云 文永三年二月十六日寫之不審繁多逐可有之權律師能海

とあるのがそれで、これ等が點所屬の名稱の纒つて表はれる古いものとせなければならぬ状態である。即ち江家點なる名稱が丈献に現はれたのは鎌倉期に於てゞある。菅家點さへも文献に現れたのは矢張前記二種の古點譜所載以後である。即ち、圖書寮本貞觀政要卷一の奧書に(狩野教授還暦記念支那學論叢王朝時代に於ける博士家使用ヲコト點譜による)

建長六年三月廿日以家説授小男淳範既訖 三品吏部大卿經範

裏書左に

此本 南家之點本也 奧書如表而永仁二年八月晦日以菅家本朱點並墨點寫之於菅家者合經點畢能々可分別又注者是南家之注也

(筆者云右南家之點本とあるのは東見記下に背〈ケテ〉燭共憐深夜〈ノ〉月踏〈テハ〉花同〈ク〉〈シム〉少年〈ノ〉〈定家卿ノ點/南家點〉南家トハ日野烏丸勸修寺云とあるが如何なる點であるか詳にし得ない)

とある如く時代は鎌倉中期に下るのである。點譜所載の菅家點なるものゝ創始された時代の判定に就いては資料の足らぬ爲未知であるが、猶「國語國文の研究」所載「尚書及日本書記古鈔本に加へられたる乎古止點に就きて」の項に吉澤先生が論及されてゐるのを參照すべきである。若し江家點が存在せりとするならば、その點は菅家點より後に出來たことは確實である。又菅家點と認められる點は文献上延喜時代の點なるべしとされる岩崎文庫尚書點と云はれてゐるが、而も菅家點なるものゝ名稱の文献に現はれたのは鎌倉中期である事も事實である。これによれば如何に各氏諸家の點が秘せられつゝ傳つて來たかゞ分るであらう。而して點の動揺期である平安中期を境として、やがて諸點統一の機運の兆した鎌倉期に至つて諸家の點を集めた點譜が編纂されるに至り、更に菅家點南家點なる名稱も文献に現れたのであると思はれる。乎古止點なるものが、「文教温故」に

をことはもと南都法相宗の隱點なるが其後いつしか儒家に轉用してより故實とはなれるなり

と云ふが如く、各氏諸家の秘密點であると解すれば、それの所屬の名稱も亦竹帛に止めて他家或は衆俗の目に暴すことは出來る限り控えたのであらう。その結果が今日文献上その名稱を見出す事の困難なる状態に導いた所以であらう。長秋記に、テニヲハ點、と名稱が出てゐるが、別に點に所屬の名稱ではなく、單星點のみの稱であらうと、吉澤先生も云つて居られる。乎古止點の名稱さへも、それが普遍的の典籍に現れたのは近世以後である位である。然るに、點本の名稱は、一般典籍との區別の必要上、古くから用ひれたらしく、既に、因明入正理理論義纂要(興福寺藏)の識語に

元興明詮天長八年略勘了九年三月廿六日講興福寺僧定寂以安和三年歳次庚午二月巳午晦日尋借明詮僧都點本

とあるのが最古のものである。これに對して點そのものは如何に秘せられつゝ傳へられたかは、その所屬の名稱の文献に表れた時代の遙かに下る事を以て證せられるのであらう。敍上の如く乎古止點所屬の名稱が文献に現れなかつた事實には、乎古止點そのものが秘密性のものであつたことを考慮に入れなければならぬ。尚又實際問題として、所屬の名稱が存しなければ、乎古止點傳授の經緯が不分明となるから、一點の起ると同時に、その名稱は用ひられてゐなければならなかつたに相違ない。かく云へば、乎古止點所屬の名稱の存在否在存の決定には、その名稱の文献上に於ける鑿索は、何の意味もなさなかつた事となる。然し一應はこの檢討は必要と思ふ。事物の存在の否定は、肯定の論證よりも困難であり、それだけ又必要な事であるからである。文献に江家點の現れなかつた事實に、更に點譜所載の江家點を用ひた點本に接し得なかつた事實を加ふる時、筆者の寡聞と資料不足の憾はあるが如何にしても江家點の存在の否定に導かれて行かざるを得ない。

菅家に對して江家は博士家として對立の二大勢力であつた爲、菅家點の創始と同時と云はすとも、それを遠く距らぬ時期に、江家點なかるべからずとの推定は無理からぬ事である。點譜に江家點とあるにより、江家點の存在を信じ、その結果、史記古鈔本の識語に、大江家國の名の明記されてゐるのを以て、本文に施された點を、江家點なるべしと信ずるに至るのは當然とするも、事實は、これに反して讀者に不審の念を抱かせたが、この疑の解消の爲私は延久時代に於ける、江家點の存在を否定した。延久時代は乎古止點の動搖の激しかつた時代で、かくの如き時期には、點譜に見えぬ乎古止點を使用した點本あり、點譜にその所屬の名稱のみあつて、その點の用ひられた點本が目に觸れぬ場合の予盾も起り得るであらう。江家點なる名稱は、後者に屬するものゝ一例であつて、延久時代を目安にすれば、全く有名無實の類ではなからうか。高畠敬は、眞俗二點集の中に

粛按ズルニ前ニ擧ゲタル大町家藏ノ菅江兩家ノ點圖を以テ爰ニ比フレバ、經ハ菅、紀ハ江ト錯雜シテ、是非決シカタシ。且訓點モ間々異ル所有レバ共ニ好本ヲ得テ後日考訂セン。(筆者大町家蔵の點譜未見)

と云ひ更ニ經書及紀傳の範圖を掲げて後に

粛按ズルニ、此經紀ノニ圖モ前ニル理如ク、菅江兩家の訓點錯シテ、孰レトモ分チ難シ、且元本ハ全訓ヲ注スト雖モ異ル點有ルカ故傳寫ノ誤リナラント後日正看安カラン爲、異點ヲ執テ擧ル。

とあつて菅江兩點の區別を分明になつ得ない事を述べてゐる。江家點の存在を確認すべき適切な材料もなく、又否定すべき積極的論證もなし得ぬ時は只文献によつて、示された事實に頼るより外に道がない。筆者は延久時代に於ける江家點の存在否定を基礎として考へる時、自家點を創始せんとした家國の意圖の兆を點の移動に見出し得たものと解するのである。

丙説

以上簡略であるが、江家點の存在に就き私見を述べて來た。更に、丙説を、前記乙説に關聯せしめつゝ結論に向ひたい。即ち家國は、自家の點を有しなかつが爲、或は師資の關係よりして、已を得す菅家點を用ひたのであらうが、學派對立上、自家學統の對面を維持せんとして、新しい點を起さんとしたのではなかつたか。

當時、江家の菅家に對する學問上の張合は考へられる事で、その間に介在して、一世に榮華を極めた、藤氏一門あり、それ等の關係に就いては一應見渡さねばならぬ。

先に、この鈔本の筆者を大江家國と斷定して、次々の書寫傳來の經過を述べた。こゝに更に、第二章と或は重複する厭もないではないが、江家、藤原氏、及び菅家の三者の關係を、主として、學問上に就い考へて見ようと思ふ。

先づ、藤原氏と江家との學問上の關係を述説さして頂きたい。前述の如く、家國の父佐國の文章生時代、弓場殿に於て課試された事が、扶桑略記、百錬鈔に所載されて居て、その人物及び動きが稍々察せられたのである。更に佐國が、漢詩にその才能を認められた事は、大江匡房が推賞した程であつて、「朝野群載」に帥江納言の「江納言暮年詩紀」の文に

故伊賀守孝言朝臣、掃部頭佐國 提㆓携於文㆒浮㆓沈於道㆒ 蓋後進之領袖也

とあるによ窺れるのである。尚又、家國の兄と思はれる通國は大學頭に迄上つた事は「尊卑分脈」に見え、又前記、大日本史大江朝綱傳の末尾の文を引用した如く、當時文章博士であつた本朝文粹の撰者明衡に仕へた事が分る。藤原明衡が文章博士に任ぜられた事を明記した史料に接せず遺憾であるが、前述の如く、その位地を退いたのは、治暦二年九月であつたから、佐國が文章生時代、或はその時代でなければ、それ以後に於て學問上明衡の薫淘を受けた事は考へられるのである。この二人と同じ時代に並ぶ家國が、その學生時代に於て、藤原氏と師弟の關係を保つてゐた事は想像に難くない。これによつて、更に憶測を加へる時、學生とあるのは私學勸學院の學生のことを云つたのではなからうかと思はれる事である。然し單に學生とあるから、私學ではなく、官學の學生であつた證據であると云ふ論も成立するが、當時の勸學院の勢力を顧る時、必ずしもかゝる論に加擔出來ぬ。「尊卑分脈」にも勸學院學頭の地位を官政の位階同樣に掲げてゐるのを見ても、その勢力は奈邊まで及んでゐたか、察知し得られるのである。この勸學院は、延暦年代創始の和氣氏の弘文院、と共に弘仁期學藝隆盛時代に創立され、綜藝種智院(弘法大師)學館院(橘氏)奬學院(在原氏)等相承して興つたがそれ等の先達となつた有名な私學であることは世人周知の事である。これに對して官學の事に就いていは、前記、神皇正統記、清和天皇の條を更に詳しく引用すれば、

大かたこの大臣(冬嗣)遠きおもむばかりおはしけるにこそ、子孫親族の學問を勸めんため勸學院を建立す。大學寮に東西の曹司あり。菅江の二家これを司りて人を教ふる所なり。かの大學の南にこの院を立てられしか腰南曹とぞ申すめる。氏の長者たる人旨とこの院を管領して興福寺及氏の社を取り行はる。

とあり菅原、大江の兩家は文章院と稱して東西の曹司に分れて、學生を養成してゐた。然しそれにも増して勸學院の勢力のあつた事は、氏の長者たる人が興福寺及春日神社等社寺宗務の事に當つて、學問以外に政治的勢力の擴張にも力を注ぎ、或は「勸學院歩」と稱して藤氏の慶事を奉賀する儀禮を學生に行はしめる等の事が物語つてゐるのである。當時藤氏一門の人のみならず、天下の俊逸の士が、此處に集つたことは想像されるのである。清原氏の奬學院が年官を給はつて勸學院に準ぜられたのは康和三年の事(國史大辭典年表による)であつた程である。藤氏の政治的勢力に並んで、その私學の發展は、他の私學を遙かの下に睥睨してゐたであらう。前述の如く、或は官學以上の勢力さへも想像されるでないか。かく考へる時、單に學生とあるを以て、私學の學生である事を否定する證にはならぬ。この鈔本が勸學院學頭に上つた、藤原家行に傳へられたと推定する時、學生家國を勸學院學生なりと考へ合はせる事は決して妥當を缺かぬと思ふ。家國の傳は史料の無い爲に推定の推積を續けるばかりであるが他を以て此を推せば中心に遠く逸れる憂はなからう。尚、寛弘七年に薨じた(日本紀略)文章博士大江以言は「江談抄」に「少而受㆓業藤原篤茂㆒」とあり、二條關白師通公が大江匡房の教を受けた事は前に述べた所である。大江家の藤原氏に對する學問上の關係は親密以上のものを感ぜられるのである。

これに封して、江家菅家の關係は次の事を述ぶれば足るであらう。荷田春滿の「大江朝臣考」の末尾に「本朝文粹」を引用して、

菅原輔正 辨㆓耆儒之問㆒ 云既謂㆓江家流㆒ 庶不㆓孟浪㆒

とある。而して輔正が老儒と諷した相手は恐らくは大江擧周であらうとしてゐる。その擧周は「圖書寮本日本書紀卷廿三」に菅家經點を以て加點したと思はれる大江匡衡の子に當るのである。尊卑分脈大江系譜より、略要を示せば、左の通りである。

菅原正輔は「尊卑分脈菅原氏系譜」によれば、寛弘六年十二月廿六日、八十五歳にして卒した事が見え、擧周は猶長和五年後一條院の侍讀となつた(公卿補任)のであるから、長和元年に卒した匡衡の方を指したのかもれぬ。然し擧周の事は「本朝文粹奏状」に

可被上啓擧周明春所望事

右伏檢舊貫秀才藏人之濫觴起㆑自㆓江家㆒(中略) 今當時匡衡侍讀問男擧周爲㆓秀才㆒ 對策及第天之福㆓江家㆒

とあつて、早くより、學識の秀出してゐた事が察せられ、又「同書奏状」に

大江擧周朝一謂㆓大輔勞㆒ 一謂㆓臨時之恩㆒共㆓浴鴻慈㆒

とあつて破格の階位を賜り當時學者の間の注視の的となつたのである。それに對して、菅原正輔が、諷刺的言辭を弄したものと解されるのである。かゝる兩家の拮抗時代、而も文章博士の輩出した維時より擧周までの江家隆盛時代の半ばに生を享けた匡衡が、何が故に「日本書紀古鈔本」に自家點を加へなかつたのであらうか。こゝに於ても、江家點の存在を疑はざるを得ない立揚となる。今藤原氏と大江氏との關係、及び、大江家と菅原家の對立状態を見て來た。

一方藤原家と菅原家との關係は周知の如く、延喜時代より穩でないのでから、大江家が藤原氏の庇護を受けつゝ菅原家と對立してゐたものと思はれる。更に範圍を縮めて、家國時代の大江家の學問上の勢力を調べて見よう。その勢力の消長を示す一事實として、各家より文章博士に累進した人を出した事を以て、それを計ることが出來る。家國の時代を中心として文章博士の名を見えるのは、維時以降、匡衡 以言、爲基、匡房である。

その中、擧周は、前述の如く、長和五年(一六七六)に侍讀となつた年齡よりすれば、延久五年(一七三三)迄も世に在るべき筈がない。以言は前述の如く、寛弘七年五十六歳を以て卒したのである。歌人として名のある爲基は、前記系譜に示す如く、匡衡と並べられる時代の人であるが、匡衡が「尊卑分脈」に明記する如く、永延元年五十四歳薨とあるによつて推せば、爲基が延久五年迄壽を保つたであらうとは考へられぬ。かくの如く、家國時代に、博土家の勢力を物語る文章博士の輩出する事なく、家國より後の匡房は「尊卑分脈」に依れば「天永二年七十一歳薨」とあれば延久五年は三十三歳の壯年時代である。その時代の位階は「公卿補任」を檢するに、

とあつて、未だ文章博士には至らなかつた。

これは前述の如く、學問の勢力の消長を表す一事實たるに足ぎぬが、家國がこの鈔本に訓點を加へた延久五年は大江家に一時大人物の杜絶えた時と見てよからう。これを一方の側より言へば、菅家の勢力の大であつたこと、更には藤氏一門が學問上の木鐸としての地位に在つた事は言へると思ふ。

かゝる時代の學生の身分であつた家國が匡衡さへ用ひなかつたと思はれる自家の江家點を案出し得たであらうことは想像されぬ。又案出し得たとするも、敍上の如く周圍の環境より推して、直にそれを用ひるべき事情に立至つて居つたとは考へられない。已を得ず、從來博士家點として慣用されてゐたと解される菅家點を使用すべき事情が察知し得られると思ふ。更に注意すべき事はこの鈔本を如何なる經緯の下に寫したかと云ふ事である。勿論これとても正確な資料の有つての事ではない。只考へられる範圍に於ては、音人朝綱以來の江家に、集解本史記が自家の書筥に藏せられてゐなかつたとは考へられぬ。

即ち家國がこの鈔本を書爲した事によつて初めて、江家に備へられたのではない。前に引用した「江談抄長句事和帝景帝光武紀有㆓讀消處㆒事」とある所によつてもその消息が分り、又

江談抄第五 都督自讚の事とある條に

家之文書道之秘事 皆以欲㆓湮滅㆒也 就中史書全經秘説徒ニテ欲㆑滅也 旡㆓委授之人㆒ 貴下ニ少々欲㆓語申㆒如何 答云生中之慶 何以如㆑之乎 被答云 史記爛脱ハ只三卷也〈本紀第一、第/四、第五傳也〉後漢書ニハ廿八將論也 共有㆑註 有㆓別紙㆒

とあるが「史記爛脱ハ只三卷也〈本紀第一、第/四、第五傳也〉」とある意味は、このまでは解し得ない。恐らくは「史記爛脱ハ只三卷〈本紀第一/第四、第五〉傳也」とあつたのを寫し誤つたのではないか。即ち、史記の散佚を憂慮してゐたのであらうが、本紀第一、第四、第五は爛脱し、他は傳つてゐたことになるのである。この言が延久五年以前に書かれたものとすれば問題でないがそれ以後の事とすれば、集解本史記以外の他の史記の事を指してゐたかも知れぬ。書かれた年次不明でその間の消息を詳にすることの出來ぬのは遺憾な事である。

それは兎角、江家に史記が備へられてゐた事は、考へられる事である。家國が書寫した原本は果して自家傳來のものであらうか。恐らくさうあるべしとの穩當な推測を下したいのである。然し尚考を深める時、次の理由

よりして、家國が學生時代、藤原氏より原本を得て書寫し、勉學修練の志を以て、乎古止點と假名をその授けられたまゝ、端正に移したと結論を付けたい。

受訓了、とあるのは、藤原氏と大江家國の師資の關係と髣髴せしめる識語ではないか。以上の如く甚だ憶測を連ねたが、かく考へると、家國が點じた乎古止點は必ずしも江家點ではなくともよい事となる。家國が朱點を授けられた壯年期は專一なる學徒として當時博士家點として勢力のあつた菅家點を用ひて錯誤なく書寫するも自らも許し他にも容れらるべき事である。然しながら、歳月の經るに隨ひ江家に人物の一時杜絶えた時代は過ぎて、匡房の名世が振はんとしつゝある時期に到ると共に家國が思慮分別の年輩にも達して來たのである。この時江家の學統を熟慮し殊に藤氏の恩顧に想到すれば、何時迄も菅家點に固執すべき筈もなからう。家國がかくる心的憂化こそ、點の移動に、端なくも現れたと解するのは誤つてゐるであらうか。墨點に家國の加筆ありと先に推測した。それは家國の敍上の分別を以てしての後年の加點であり、その時はスは單星點より完全に姿を消して仕舞つてゐる。後建久七年、藤原時通もこの態度を踏襲した。藤原氏も菅家點とは別の點を起さんとしたのであらう。この事を物語る點本がある。今左に、使用せられた乎古止點と識語とを示す。

白氏文集(神田喜左衞門氏藏)
(狩野教授還暦記念支那學論叢王朝時代に於ける博士家使用ヲコト點譜 の中より)
(他の線點は略す)

本書卷三卷四〈首闕〉の二卷あり、卷三に奥書裏書あり 左に

嘉承二年五月五日[以]未時書寫畢
 [于時看侲子之射聞郭公之聲]
                  藤原知明 〈改茂明〉
  天永四年三月二十八日 〈晡時〉 雨中點了
             藤原茂明

裏書左に

           改敦經
保延六年四月廿日授三男敦眞了抑此書
一部給敦眞了蓋是慣自家之詩情爲令繼文道於儒業而巳
  季部少卿(花押)

右奥書中[  ]を加へたるは抹消したることを示すものなり

右の如く、延久五年より僅か三十四年後の嘉承二年に藤原知朗に依つて、單星點スは除かれてゐる事が分るであらう。その他、清原宣賢尚書點にもスの移動が窺れ、黄帝内經太素點も亦スとコトとの變動を示す等、菅家以外の博士家たる、江家を初めとして、藤原、清原、丹波の諸家が新點を起さんと努めてゐたのであらう。然し何時しかは乎古止點單一化傾向の流れに押され、鎌倉時代に至つて、猶菅家點が原形のまゝに保存され、それ以上の發達もなく、今日傳はる如き、點譜所載のものに統一されたのであらう。大江家國は勸學院學生と思しき時代を經て、別點の創始をこの鈔本に試み、點移動の先驅者となつたと考へられる。少くとも文献の物語る所、この推論に導かれるのである。

假名及び假名遣

その鈔本に使用せられた假名を、五十音順に配列して左に示す。

本文に

とある朱點を、先にサの假名として掲げたのであつたが、今こゝにナの假名に訂正した。この事に就いて、説明を加へさして頂き度い。

調査當時も既にをナの假名と認めたかつたのであるが語法に不審なる結果を生じ斷定を差控えて置いた。これを書下しにすれば

となる。最初に、、とする語法が許されるか否かに、疑問を持つたのである。とある者に、ノの乎古止點が符せられてゐるから、モノと訓むべきで、左傍に墨訓キの假名が符せられてゐるのに應すれば、となるのである。かくすればはキの假名即ちの書誤りではなからうかと云ふ事に落る。尤も「桂庵の家法倭點」にサにの假名を用ひるのは點じ易い爲であるか(國語國文第二卷第四號抄物についての中より引用)と云ふが如く、その點法の用ひ慣れたのに乘じてとすべきをとして仕舞つたのかも知れぬと云ふ疑が生ずるが、誤字論の如き際限のない事となるので確言は避くべきである。一方墨點にキとあるが故に必ずしもと訓まねばならぬ事はない。本文に於て、朱墨兩訓點の一致しない場合は隨所に見られるのであつて、一例を擧げるとの如き、乎古止點は朱でヌの假名は墨點であるがこれによると共にヌを表してゐる乎古止點となり矛盾を生する。然し朱點と朱點とは不一致の場合は、今こゝに考察を加へんとする箇所を除いては全く無い。かく考へる時、とあるの朱訓の朱點は必ず相應するものと考へねばならぬ。而して前述の如く誤字説を排すれば如何にしても「深ナル者」と訓まねば落付かぬ事となつて來る。深なる、は單字音ナリ活形容動詞の連體形であることは明である。所謂聯語熟語を以て構成されたナリ活形容動詞は多い。例へば深甚なる、の如きである。然るに、單字音の場合には全然無しとは云へぬのであるが、例が甚だ少い。殊に、深なる、とする語法が果して古代國語に存したのか否かに就いて疑を挿んだのである。そこで、この例と思はれるものを、他に求むると、類本、呂后本紀、孝文本紀に

の三例を見出し得たのである。前者は一般に用ひられ問題とするに足らぬが、後者、アクナル、とあるのは、其れかと云へば、元のまゝの聯語、不仁ナル、であつて欲しいと考へられる程餘り用ひられぬ例ではあるまいか。然し右に擧げた三例は共に、抽象的な意義を表現する場合で、深ナル、と事物の標準を指定するが如き用例と少し異る樣である。前記の例の如きは下つて鎌倉期にも多く見出し得る。例へば、京都帝國大學圖書館藏清原宣賢筆尚書點(嘉應三年點)より例を抄出すれば

とある如く、孝文本記の如き例のみである。尚、前記黄帝内經太素點(仁和寺藏)にもかゝる例が多く見出され更に、深なる、と稍々等しい例が在つたので左に抄出することゝする。

とあつて、尚書點に見ゆ如き例は比較的多く見出せたのであるが、左に

とある如く、僅かではあるが、事物の標準を指定するナリ活形容動詞を見出得たのである、故に、深なる、とする語法を認めてよいと思ふ。

今異例と思はれるものを拾取して、ナリ活形動の活用表を示せば

第一活用 第二活用 第三活用 第四活用 第五活用 第六活用 第七活用
ナリ 長なら 順なり 深なる サイニシテ

となる。右の中、第二、第五、第六活用は例を見出し得なかつたが、類推は出來ることゝ思ふ。現今では、かゝる單字音ナリ活用は特殊の範圍に限られ、寛ナル異ナルの如き、第四活用の場合が在る。又急ニ、單ニ、優ニ、眞ニの中急ニ、單ニは第四活用形をも持ち得るが他は副詞となつて用法が固定して仕舞つてゐる。古代の古く自由な活用はなし得ない憾がある。

尚國語假名遣の時代的特色を現すものとして、國語促音標記法を先づ調べて見る。

(括弧内の呂、文、景は夫々呂后孝文孝景本紀の抄出である事を示す。假名はすべて墨のみである)

一の(イ)はラ行四段活用の語尾が促音便となり、その標記法の動搖期に省略に從つたと見られる例である。ラ行四段の活用語尾を明記したのは、と一例あり、ラ變では、とこれも一例を存するのみで、省略の揚合が遙に多く、この場合も促音に訓んでゐたものと認めてよからう。

(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(へ)共れも動搖期の同標記法の例である。

二 欲の傍訓ヒは撥音レの假名に汚點が交つたのかムの假名であつたのか明瞭でない。

四 呂后本記に、、とタとトの間に不明瞭な訓があり、促音を標記するに困惑した樣な跡が見られる。タトフとある例はこれ等の古鈔本に見出せぬが、他にトウトフとする訓例も見出せぬ限このフも又促音標記法であつたのでないかと思はれる。とあるのもタツトフと訓ますべき促音の省略を意識して訓じられたものではなからうかと思はれるのである。


國語撥音については左の例を見出す

音便現象は

イ音便
撥音便

用の活用は

とあるによりワ行一段活用であつた事が分り、平安朝期の用の活用の特色を示してゐる。

尚用語法として、皇帝、皇后、太后、は、ノタマハクとして敬語を用ひ、臣下は、マフス、として區別されてゐる事は勿論であつて、例を擧げる迄もない事である。


以上は、孝景本紀に用ひられた訓點に關する考覈であるが、その完全なる述説は延久建久の墨點の區別の分明にせられて後になさるべきであるが爲、拙稿の不備の補足は後勘を期する考である。尚大方の御教示を願へれば筆者の幸これに足ぐるものでない。

本稿は吉澤先生の御指導に依つて草するを得たものである。この間那波鈴鹿兩先生の教を仰いだ事も多かつた。こゝに厚く諸先生方に感謝の意を表する次第である。

初出
國語・國文 6(4): 1—49 (1936)