考證の確實性

題目は大へんいかめしさうであるが、實はほんのつまらない感想に過ぎないのだ。のみならず果して内容がかうした題目に當るかどうかも分らない。たゞ前號の豫告にかう掲げられたから、第一語呂も宜いし、そのまゝにしたのである。決して羊頭を懸けて狗肉を賣るつもりではない。

この頃何年ぶりかで日記をつけて居る。病中のつれ〴〵に毎日出鱈目の歌を書いたり、取りとめもない感想を記して居たりしたのが惰性となつたのである。ところがつい怠けて二三日分も一ペんにつけようとすると、もう三日前位の記憶は實に不精確なのである。天候などは殆ど注意してないせゐもあるだらうが、一度でもはつきりと思出した事がない。馬琴が夜間の天象までも克明に記して居るのなどを思ふと、誠にお恥しい次第だが仕方がない。いゝ加減に「晴」ぐらゐにしておく。だから勿論それはあてにならないのだ。ところで天氣の事などはまあとにかくとして、どうかすると一昨日來訪した筈の友人の事を、昨日の欄に書いてしまつたり、甲學生の名を乙學生の名に間違へたりする。あとで氣がついても面倒だから、ついそのまゝにして置く。氣がつかない場合はもとよりである。

乃公が芭蕉・西鶴程の大詩人、大小説家だとする。後世斷簡零墨すらも珍重される頃になつて、偶々この日記が發見されたとする。研究上の根本的資料として、學徒が驚喜し貴重視すべき事は知るべしである。そこに記されてある一字一句は、もはや動かすべからざる權威を以て最後の斷定を與へる。さうなると可愛想に當然彼の仕事に關係のあつた甲學生の名は知られないで、乙學生の名がこれに代つてしまふ。これぢやうか〳〵日記もつけられないぞ。――そこまではかうした馬鹿げた空想も續くのだが、さて殘念ながらこの日記が後世それほど權威をもつべき可能性有りとの自信がないので、又いつのまにか乙學生の名が丙學生の名に代り、一昨日の訪問者が昨日の訪問者になり、そして日記はつゞいて行く。

こんなルーズな日記はさう澤山はあるまい。しかしどんなに記憶な確な人の記録にしろ、もとより誤がないとは保證出來ない。自分自身に關した日記がさうである。他に關した記録にどれほど誤が多かるべきかは推察に難くない。今日の出來事を今日報導する新聞の記事すら、必ず多くの誤を含んで居る事は屡々經驗する通りである。さう考へて來ると自筆本、門人の聞書、時代を同じくする人の記録等々が、果してどこまで絶對的な確實性を持つて居るものだらうと疑はざるを得なくなつて來る。

疑へば所詮すべての歴史は信ぜられな い。一切は空と觀じた方がさつぱりして居る。だが私はそこまで虚無的に考へようといふのではない。況んや色即是空などと大悟徹底はまだ出來て居ない。勿論又研究上のすべての根本資料を否定し去らうとするのでもない。平凡な言葉を引用するやうだが、とにかく火のない處に烟は揚らないのだ。日記に記録に、新聞紙に、誤は少くないにしても、それが全然無根の事實だといふ事は極めて稀であらう。昨日が一昨日となり、甲が乙になつてゐても兎に角ある訪問者のあつた事だけは事實である。しかももとよりこの日記の記事は正しくはない。

解決すべき點はこゝに潜んでゐる。而してそれは何人にも氣附かれて居る事にちがひない。病後のぼやけた頭で、ぼんやり空想して居る結果などを待つ必要はないのだ。だが實際問題になつて見ると、最も確實性に富む資料などが發見された場合、案外人々はいきなりそれにたよらうとしはしないだらうか。今、西鶴自身の日記がひよつこり現れたとする。それを根據とした考證の如きは、恐らく無條件で信じられるにちがひない。ところがおぼえの宜い西鶴でも間違はあるのだ。そして時には重大な事項について誤つて居ないとも限らないのだ。しかし日記の發見についての驚異は、もはやさうした疑を插むべき餘裕を與へないほど、研究家たちを興奮させてしまひはしないだらうか。

確實な資料の搜索、さうしてその上に立つ精緻な考證、それがすべての研究の基礎的工作として最も尊重さるべき事は言ふまでもない。しかしいかなる根本的な資料と雖も、その確實性に絶對の二字を冠する事が出來ない以上、そこから直ちに唯一の正しい結論が得られると考へるのは早計であらう。所詮物の眞相を見る明は、合理的な考證を超越した所にあるのだ。古人が眼光紙背に徹すると言つたのは、蓋しこの謂に外ならない。アランは歴史と小説とについて、「小説に於て假構フイクシヨンと呼ばるべき部分は、物語が主となるのではなく、むしろ行爲をして思想の發展たらしむる分析の關係である」と論じたといふ。だが所謂燃犀の史眼といふのも、やはり箇々の行爲を思想の發展の中に正しく把握し得る鋭い直覺をいふのではあるまいか。さうなると最もすぐれた史傳家と小説家との才能は、まさに全く同一のものでなければならない事になる。而してそれは確かにさう言つてよからう。即ちいかに確實な資料に據らうとも、又いかに合理的な考證を試みようとも、もしそこに「行爲をして思想の發展たらしむる分析の關係」に於て眞に透徹した理解と洞察とを缺いたなら、畢竟その確實性は一面的のものにすぎない。言ひかへると必しも確實ではないのだ。

西鶴の日記よりも、夢で見た西鶴の方が本當の事を語つて居るのかも知れない。私はさう思ひながら、いつ燒きすててもいゝやうな日記をつけて居る。


初出・底本
國語・國文 4(7): 70-72 (1934)