岡田君を憶ふ

岡田君が死んだ。知人たちはそれを死亡通知によつてでなく、人の噂で皆聞き知つた。君の死はそれだけ意外にも思はれたが、又考へると極めて自然でもあつた。君が病氣で寢こんでしまつたのは、もう一年くらゐ前からである。神經の激痛で病苦はかなりひどかつたらしいが、病症そのものは致命的のものではないやうに聞いて居た。去年の秋頃であつたか、自分が近い中に見舞に行くからと言つてやると、病床のさまを見られたくないから絶對に來てくれるな、今によくなつたらお前の方へ行くからと言つたやうな便りがあつた。それからも一二度葉書の走り書程度ではあるが便りがあり、自分も君の強硬な見舞謝絶の意思を尊重して出かけるのは見合せて、折々たよりをするだけにして居た。最近には『國語・國文』の原稿を送つて來たりしたので、大分快方に赴いて居るらしい樣子に喜んで居たのである。自分は右の原稿について一寸知らせたい事もあり、手紙を書かうと思ひながら怠つて居た。二月の初め頃急にその事を思ひ出してたよりを出したのだが、その時はもう君は白玉樓中の人になつて居たのだ。

君の死がこんなに早からうとは實際意外であつた。しかし君はすでに遺書を作り、死後のこと萬端の處置を指示した上、死亡通知の文面まで用意してあつたさうである。だから君にとつて死はもう十分豫期されて居たのである。さういふ事を知つて居たならば、見舞謝絶の意思に反してでも生前一度會つて置きたかつたと思ふ。しかし君はやはり誰とも會はず、誰にも知られず、一人で死んで行きたく思つて居たのであらう。君には兩親もすでになく、妻もなく、子もなく、全く孤獨の生活を送つて居た。恐らく臨終の折も傭ひ婆さん一人の手で介抱されて居たのであらう。たしか昭和十年頃であつたらうか。偶然同期生の濱本君と君と自分と三人大學で出會つたことがある。そして三人で長い間話し合つた時、君はどうも家庭が面白く行かないといふことを何度も訴へた 濱本君と自分とはさうした事が一方的な考ばかりではいけないからと宥めたのだが、結局君は一人になつてしまつたらしい。それからあと遂に妻を娶らなかつたのである。それは世俗的に評すれば君に常識が缺けて居たとも言へるであらう。實際さういふ點は無いとは言へない。けれども君自身にとつて見れば、つまりは書物以上に、もしくは學問以上に愛し得る女が見つからないといふだけの事だつたのだ。君は大量ではないが酒を嗜んだ。わづかの晩酌に陶然となつて、片手に盃片手に本を持つて居るといふのが、君には最も樂しいものだつたらしい。酒が配給制になつてから、その樂しみの大半が失はれたことをよく語つて居た。友と世上の事を談じて盃をあげる、さういふ事より一人で本を相手にちび〳〵やるといふのが、言はゞ君の性分に最もあつて居たのだ。さうした孤獨ではあつたが、自ら選んだ生活を誰からも煩はされずにつゞけて來たわけである。死亡通知さへ發送されなかつた――尤もこれは他日正式の葬儀の時發送される由であるが、――といふ事も、實は君にとつてはふさはしい事であつたかも知れぬ。

君の學問上の業績については、こと〴〵しくあげつらふまでもなからう。その等身に及ぶ遺稿は、近く我が國文學會の手で整理され、一部は刊行の運びになる豫定と聞く。誠に文字通りの精緻細密な考證の學風は、遽に他の追隨を許さぬものがあつた。その念の入り方の甚しさは、例へばある研究者の名をあげるのに、割註してこの人は舊姓某で養子に行つて某姓になつたと記し、ある本の分厚さを示すのに、ぎゆつと手で押へて何寸の厚さだなどと記す類であつた。これも極端と言へば極端かも知れぬが、とにかくそこまで言はねば君は氣がすまなかつたのである。そしてさうした學風がまた君の學界に於ける地位を獨自のものたらしめて居た。君の研究は學生時代からすでに群を拔き、その卒業論文の如きは非常に出色のものであつた。丁度大學を卒業した頃は、自分も君の驥尾に附して一しよにいろ〳〵しらべ合つたりした。『藝文』に丘衣生といふ名で合作の原稿を投じたこともあつた。丘はをかだのをかで、衣はえばらのえを合せた無意昧な號だつたが、とにかく當時の『藝文』といへばすばらしい高級雜誌であり、その終りの方に二段組で掲載されても二人にとつては大變な嬉しさであつた。だがその中君は主として中世、自分は專ら近世の研究に志すことになつたので、段々さうした交渉は少くなつたが、それでも君は自分の書いた物などよく目を通して注意してくれた。自分もまた君の和泉式部の研究だとか、源順の傳記の考證だとかいふ類のものは、折々讀んでは大に益を受けたことである。たゞ君の最も專門とする純語學的研究には、多く敬遠主義をとつてあまり讀まなかつたが、もとより辭書類についての君の造詣がいかに深かつたかは自分たちにもよく分つて居た。今度遺稿の出版にはそれらの研究は特に一括されることであらう。又それについては專門の立場から語つてくれる人があるだらうから贅しないが、君の知識はひとり國語學のみでなく、隨分多方面に亙つて蘊蓄が深かつた。そんな事は書けばきりはないが、例へば蝮蛇に關する文獻のやうなものまで博くあさつて居た。そして自分で蝮蛇を料理して食ふのである。勿論それは藥用としてであるが、さういふ事にまで君はしらべるとなると徹底的だつた。それがつまり君の學問を大成させたのである。

大正七年九月に京都帝大の學窓に机を並べて以來、憶へば三十年に近い交游であつた。靜かに座して在りし日のことをおもひめぐらせば、それからそれと思出の數は盡きないのである。まだ自分も老年といふ程ではないのだらうが、かうして古い友を失つて見ると、さすがに物淋しい氣がして來る。同期生の中で最も年少であつた君が、最も先になくなつたのだ。しかし誰よりも最も多くの仕事をしたのは君である。君としても恐らくあまり思ひ殘すこともなかつたらう。謹んで冥福を祈りながら筆を擱く。


初出・底本
國語・國文13(4): 75-78 (1943)