所謂國語問題の歸趨

國語問題といふものについて本誌から意見を求められたが、その國語問題といふことは何を意味してゐるか。その意味によつてその落ち着くべき先がおのづからわかる筈である。一般的に考へて見て、それは學術上の問題なのか政策上の問題なのかの二點の外は無いものであらうと考へる。それが學術上の問題ならば學術そのものゝ研究によつて早晩解決せられる筈であり、又學術以外のもので解決せらるべきものではない。かくして學術上の問題は政策上の問題とは性質が違ふものである。然るに今日の所謂國語問題なるものは學術上の問題であるかの如くに聲明せられてゐても實は政策上の問題なのが、殆どすべてである。

政策上の問題といふものは、その政策の因つて起つた事情を明かにせねば、その歸著點はわからないものであると同時にそれが明かになれば、おのづから歸著點の見通がつかなくてはならぬものである。今日の所謂國語問題といふものはその歴史を見ると、早くても明治維新前後に端を發し、明治の初年頃から漸次にそれが高潮して來たものである。それは最初は國字を問題として起り、次に國語の方に論が及んだのである。さうして、そのはじめは漢字を排斥し、羅馬字を採用せうといふことから起り、終に國語を廢して英語を國語とせうとする論に及んだのである。幸にしてこの暴論は、當時倫敦に居た一留學生の義憤と學殖とによつて破られた。今の國語問題といふものはこれとは形が稍違つてゐる。即ちそれは羅馬字を國字とせうとする論、漢字排斥論、假名專用論、假名遣排斥論などが主たるものであるが、それらの論は當初の論に比すると、いろ〳〵に形をかへてゐる。しかし、その源はもとより、西洋の文物に觸接した時生じた眩惑と崇拜とにあるものである。西洋人の見る所を正しいとする時に、假名や漢字が不都合な野蠻なものに見える事が自然であるのかも知れぬ。それ故に西洋人の思想を中心とし、西洋文化崇拜の思想を基として考ふる時に上述のいろ〳〵の國語問題が政策として起ることは或は當然であつたのかも知れない。しかしながら今日に於いては歐米崇拜主義は嚴重に清算せられねばならぬものであり、現に著々各方面に於いて清算せられつつある。上述の思想に基づいて生じた國語問題などいふものは今日に至つては一切破棄せられねばならぬことは明白である。上に政策上のことはその政策の因つて起つた事情が明かになればおのづから歸著點がわかる筈だと云つたのはこの點をさしたのである。

さてかやうな譯で歐米崇拜の思想に基づいて生じた國語政策などいふものは今日ではもはや存在すべきものでは無い筈であるのに、やはりまだ盛んに議せられてゐる。どうしてかやうな現象が存するのかと見るに、それらの論者は殆ど皆異口同音にこれを政策論だといはずして國語の學術上の問題だと云つてゐる。しかしながら、羅馬字採用論者がその羅馬字が國語の本性に最も適した文字だといふ事を如何に學理として證明し得たか。わが國語の音韻を學理上嚴密に論究する時にそれに適するものは羅馬字では無くして假名が一番適したものだといふことはその羅馬字論者たるものゝ論文で證明せられるといふ奇事さへも實際にはあるのである。漢字排斥論にしてもさうである。その漢字排斥論者がどれ程の研究を漢字に對して行つたのであるか。漢字の本質がどういふものか、その漢字の本質とわが國語との間には如何なる關係が在るのかなどの諸の問題こそは學術上の問題であらう。それらの事には何の研究もせずして、たゞそれが學術上の問題であるなどとどうして云へるのであるか。假名專用論とても略似たものである。西洋の文字が羅馬字二十六字で用を便じてゐて如何にも重寶に便利だといふ樣に見、又その羅馬字が表音文字で、發音通りに書き綴つてゐるかの樣に誤解した所から、その羅馬字を假名におきかへよう、又假名遣を破つて發音通りに書けばよいでは無いかといふのである。これは西洋崇拜といふよりは西洋の皮相に眩惑して眞髓を見得ないものなのである。假名が日本製の文字であることは明かだからと云つて、假名専用の文章といふものが、閑人の閑事業には用ひられても、日常の生きた生活上の文章として用ひられなかつたといふ過去の歴史を見た時に何が故にかやうな現象が生じたかといふ事は深く考慮しなければならぬ問題であるのに、それらを何時何人が學術上の問題としたのであるか。假名遣といふものが何故に過去から存在して來たかといふ理由を眞面目に學術として研究した學者が假名遣破壞論者の中にあるのであるか。而して世界中どこの國に行つたとて文字と言語といふものに完全の一致などいふものは無く、この二者の間には自然の乖離が生ずるものだといふ道理を知らないのであらうか。要するに今日は西洋崇拜思想から生じた所謂國語問題なるものが學問上の問題だといふ擬裝を施して巧みに餘命をつないでゐる時代なのである。これは國語學、又國語學者にとりては誠に迷惑な事だといはねばならぬ。

そこで、學術上の問題だといひおふせない樣に段々なつてくると、ここに、その目標をば國語の内部にうつして國語が無統制だとか亂雜だとか云つて、それを統制しなければならぬといふことをいふ。今日に於いてはこの問題が大分やかましくなつてゐるやうであるが、これについては深く考慮を要することがある。

國語が亂雜だとか無統制だとかいふが、その亂雜無統制になるやうにしたのは何人であるか。これには明治維新以後の羅馬字採用論者、漢字排斥論者、假名遣破壞論者等所謂國語政策論、國語改良運動をやつた者共の責任の大なるものがある。彼れらの多くはその國語政策の論を教育上の實地に行つて害毒を流したことの多大なものがある。或る高官は職權を以て假名遣を破壞した法規を命令したことがある。或る直轄學校長は羅馬字を以てその學校の答案一切を書くべきことを嚴命したことがある。或る中學校長はエスペラントを學校の教課として生徒に課したことがある。これらの人々は政策論と實地の用とを混同して何の見さかひも無いものどもである。一行政官、一學校長が何人から權能を與へられて國家公用の言語文學を勝手に改めて使用せしめうるのであるか。かやうな事を制止し得なかつた文部省の過去のやり方にも責任があるといはねばならぬ。又假名遣については國家の教育の樞軸にあるやうな學校に於いてそんなものはどうでもよいと云つてわざと放任してゐたのである。かやうに積極的に又消極的に上層にあるものが、統制を破つてみせるのであるから、下流のものが之に倣ふのは蓋し自然の勢であらう。それ故に無統制亂雜になつたのは國語の内部に原因があるので無くしてそれら國語政策論者が私見を勝手に實行して國家の教育を蹂躙し國語の純正を淆亂した爲に生じたものである。かやうな譯であるからして、その統制せらるべく、整理せらるべきはそれら國語論者自身の上に存するのである。それ故に、それらの論者に對して國家は斷乎として嚴重に監督して、その私見を教育の上に實行することを禁止してしまはねばならぬ。かくして一方に於いてそれらの人々によりて淆亂せしめられた國語の無統制亂雜といふものをば、眞正の意味に於いて整頓して成るべく早く秩序を恢復せねばならぬ。今や國家はあらゆる物資の上に統制を強行し、又思想の上にも統制を加へてをりながら、國語の上に淆亂を企つるものを制御し得ないといふのは譯のわからぬ話である。

國語の統制には正しき秩序といふ儼然たる標準が存在せねばならぬ。無標準の統制だとか、正しくない標準だといふことは言語としてはじめから無意味のものである。而して言語や文字が何を標準としてその正不正を判斷するかといへば、傳統に據るといふ外は無い。これは傳統以外に言語文字の生命も權威も存しないといふ根本的の事實に基づくものである。さてその國語の統制についてはそれは誰が行ふかといへば、これは國家の權威以外に之を行ひうるものが存しないのである。國家の權威を無視して國語の改革だとか、統制だとかいふことを行ふものがあつたら、それは國語問題などのやさしい問題では無くて、國家の權威を無視し、自己を以て國家以上のものだとするのであつて、それは一の反逆である。それ故に國語政策の論はたとひあつてもそれは止むを得ぬとすることが場合によつてはあらう。しかしながら國家の權威を以てせぬ以上、決してそれらの政策をば實行することを許すべきで無く嚴重に國家は之を禁止すべきものである。

さて國語の統制は國家自ら行ふべきであるといふが、國家は然らば如何なることでも國語に對して行ひうるものであるかといふに、それにはおのづから限度がある。その限度は統制といふ語自身が既に之を示してゐる。凡そ傳統の上に生命を託してゐる國家に於いては傳統そのものが、最後の標準となる。統制といふ語は上にも述べたやうに正しい標準に基づいて整理することであり、その標準は傳統を據とするものである。それ故に若し、その事が、傳統を破り、正しいといふ思想を無視するといふことであるならばそれは國家が自らその生命をば斷たうとするものであるといふ事に歸著するからである。しかしながら、傳統に基づいての統制ならば、勿論之を行ひうるものである。ここに統制といふことに附隨して改良といふことが行はれないかどうかといふ問題があるであらう。統制を行ふといふことは一面改良といふことを伴ふものである。改良せらるべき點が一も無いものならば統制の必要が無い筈である。私のいふのは從來の國語改良論といふ名の下に行はれた破壞論の意味では無く眞實の意味に於いての改良である。この眞實の意味に於いての改良といふのは國語の傳統を大切に守りつゝ國語の本質にます〳〵よく合致するやうに進めて行くことである。かやうな意味に於いての統制改良を行ふべきことが當面の問題として存するか如何といふに私はそれは存すると思ふ。

國語の統制上、今日の國家が早急に行はねばならぬ問題は送り假名である。送り假名は漢字と假名とを混用する際に生ずる問題であるが、これは國語の本質問題とは稍縁の遠いもので、大體の原則は立てうるけれども、多くは便宜によるべきものである。隨つて一般的規定は設け得るとしても個々の實際問題につきては妥當な方法を個別的に定める外には方法が無いものである。かやうなものは國家が學者實際家を集めて協議せしめて、妥當なりと治定したものを公認し、これを一般に使用せしめて統制して然るべきものである。これは國家が統制するより外に一致すべき見込の無いものである。

次に國家が統制すべきは漢語、外來語、及び新生の語の統制である。漢語は明治維新以後急劇に殖えたので、その爲に目で見なければ、差別がつかぬやうな語が非常に殖えてきたのである。これは現今のなやみであるが、その多くは明治維新以後の國語無統制時の産物である。これこそは何とか整理せねばならぬものである。しかし、今日に於いて既生の漢語を一々改めて他の語に直して、一時に之を使用しようとしても、その改め定めた當人でさへ使用し得ないもので、實際にはなか〳〵行はれるものではない。それであるから、既生の漢語の統制といふことは平素に於いて十分に精査して、それを如何に處理すべきかの案を練りて候補としておき、公の文書などに之を實行する事を得るに至れば直ちに實施して將來に向つて之を強制すべきである。過去の語につきての統制などいふことは云ふべくして行はるべきで無い。この點は外來語についても同様にすべきである。この際の取舍の方針はもとより國語の本質にかなふべきものでなければならぬ。それから、今後に生ずる語はそれが漢語の形、外來語の形、又國語の形といづれの形をとるについても十分に吟味してそれを認めるか認めぬかを國語の傳統に照して決定し、その認めたものは必ず用ゐるといふやうに骨を折りつゝ行くべきであらう。これらにつきては國語を眞正に保護する國家の常設機關を確定する必要がある。而して、これには國語を眞に愛重する達識の士を擧げてその任に當らしむべきである。

以上統制について一往の考へを述べたが、ここにまだ一つ國語がむつかしいから簡單にせよといふやうな論がある。これについて一言してみる。この問題は先づ國語がむつかしかどうかといふことに關係する。一體國語がむつかしいといふことは何人がいひ出したのであるか。若し、國語が我々にとつてむつかしくて堪へられぬものならば、我々が日常之を用ゐ萬事の要務をどうして達しうるであらう。又我々の祖先がそんなむつかしいものを我々に傳へて來たのであるか。日本人は滿六歳に達すれば、日本語を操縱することを習得し、又日常の用語を略不自由を感ぜぬ程度に習得してゐる。これを他の語でいはゞ口語の法則と平均約四千の語とを體得してゐる。これを體得して居ればこそ小學校に入學し得るのである。國語のうちに生れて來、國語の内に育ち、國語の内に生活してゐる者がそれをいつむつかしいと考へるであらうか。魚は水中に生れ、そこに育ちそこに生活してゐるが、水の存在さへも忘れてゐる。眞に國語の内に生活するものが國語のむつかしさなど思ひもせぬことである。

國語がむづかしいといふ論は元來外國人のいうた事に相違ない。國語と語性を著しく異にしてゐる言語を用ゐる支那人西洋人から見れば、日本語は奇怪に見えるのである。名詞代名詞に性などといふ煩瑣な規定があつたり、冠詞といふものがあつたりする西洋語に比べて、そんなものの無い國語が不完全に見え、前置詞が無くして後置詞と名づくべき助詞があるのに物の前後をとり違ヘてゐるやうにも見えるであらう。又國語の配列法を見れば、國語の配列がちぐはぐに見えるだらう。又横書にしてゐる彼等から見れば縱書は變なものだと見えるだらう。更に又わが國語が往々主格をあらはさず、又語句の省略のしかたなどの特殊に見えることなどは彼等には何が何だかわからないであらう。更に又世界無比の敬語の用法などになると、ただ、語法だけを學んだとてわかるものでなく、日本的に物を考へるといふやうにならなければ、わかる見込も無いのであらう。かくの如くにして日本語は彼等にとりては面倒な正體の知れぬものに見えることは止むを得ないであらう。しかし、さやうなことは我々日本人からいふと同樣に彼國の語を評しうるであらう。蟹は人間を横にあるくといふかも知れぬが、人間は蟹を横にあるくといふことは確かである。要するに日本人でありながら日本語がむつかしいなどいふのは外國人の言ふことを聞いて、それに阿諛迎合した卑屈心の發露であつて、これ亦外國崇拜主義の變形なのである。隨つて、これも、最早清算せられねばならぬものである。

さて、かやうに云ふと、それらの人々は又身をかはしてかやうに云ふ。日本語がむつかしいといふのは上に述べたやうなことでは無くて、それは文字の上にあるのだといふ。しかし、これは言語、文字といふものを覺えるのはどういふ手續でするのかといふことを知らぬ論である。これらを覺えるは、それが傳統として存する、その傳統を無條件で、繼承するといふことなのである。幼兒が言語を覺えるは、一々理解してから覺えるのでは無い。先づ覺えててから理解するに至るのである。文字だとてその理にもれない。先輩がかやうだと教へれば、それをすなほに受けて覺えるといふことによつてだん〳〵その量を多くして行くのである。その間にはむつかしいとか何とかいふことは少しも考へないのである。しかし、やはりむつかしいといふ。それではどこがむつかしいかといふと、それは假名遣もむつかしい漢字もむつかしいといふ。假名遣に就いては私の教へてゐる日本大學の學生の論文にかやうなことを云つてゐる。「わが國語假名遣の如きはとかく難澁視せられるところがあるが、これを分類整理して少時より正確にうち込めば決してむつかしいものでは無いのである。わが國人がよくこれを誤るのは少時より練習不足なのである。」と誠にこの言の通りである。英語や佛蘭語の綴り方の面倒なことはわが國語の假名遣などに比べられぬ程のものである。しかし、それらの國人は忠實に之を守り、之を一字でも誤れば、國民の資格をけがしたとまで、畏れてゐることでは無いか。國語の假名遣の如きは中學の初年生に一週間の授業ですつかり覺えさせることが出來たのは私の中學教師としての實地經驗である。これは小學校では別に學科として教へなくても、教へ方さへしつかりしてゐれば、自然に覺えてしまふのである。それが大人になつて亂れるのは、實世間に出ると所謂處士横議でそんなものはどうでもよいのだといふものがあるからそれに釣り込まれて守らなくなつてゐるからである。

次に漢字がむつかしいとの論がある。この漢字の現状については過去の支那崇拜の餘弊がつきまとつてゐるのであるから、その弊は早晩整理せねばならぬが、それの統制については上に述べた一般の統制の原則によるより外方法が無い。しかし、抽象的な漢字排斥論は遽かにそれを採用すべきで無い。字書にあるだけの漢字を皆覺えてゐなければならぬといふことになればそれはむつかしいものであるに相違無い。さりながら、われ〳〵の用ゐてゐる漢語は數が多いとはいひながら一字の漢語は割合に少く、二字三字で一語をなすものが多いのである。そこで國語に普通に用ゐる漢字は大略二千乃至三千位のものである。さて、その漢字はたゞの文字ではなくて、一字即ち一語なので英語などに比すれば、その一綴に匹敵する。それ故にこれは發音記號で無くて意義の記號であると共に、その語の視覺形象として把握せられるのである。ここに漢字がわが國語に採用せられてゐる根本原理があるのであらう。かやうな譯で、世間でいふやうにむつかしいものでも無いのである。それを仰々しくいふのもやはり、西洋人の口まねに過ぎぬ。

これについて、此頃また往々耳にすることは國語が東亞大陸に進出するにつきて、國語がむつかしいから何とか簡單にせねばならぬといふ論である。これは、上に述べた卑屈論が基調をなしてゐるのである。わが國語が外國に普及するのは日本國語が外國人にわかり易いからといふ理由では無い。英語の勢力は英米の勢力に基づくものである。それ以外に何の理由があつて英語をわれ〳〵が學ぶのであるか。英國が世界に霸を唱へてゐる以上、米國が、世界を睥睨してゐる以上英語の勢力は減退せぬであらう。これと同様に國語の勢力はわが國威又國力の發展を基礎とするものであるに外ならぬ。即ち最近の状況はわが國力の發展に伴ひその好むと好まざるとに拘らず、全般的にわが國語が海外に普及せむとしてゐるのである。これは何も國語がやさしいからとか覺え易いからとかに原因があるのでは無いのである。わが國力の隆盛につれて、彼等がわが國語を知らなければならない必要に迫られてゐるからである。一昨年五月滿洲國の建國大學に入學した五名の露西亞人學生が、入學當時には片假名平假名だけしか知らなかつたものが、その年十二月に至ると、内地の中學卒業生に劣らぬ實績をば國語の作文の上に示したのであつた。彼等は僅かに六ケ月の授業を受けて、國語の正しい假名遣漢字の正しい書方、用ゐ方を正確に習得したのである。これは白系露西亞人としては滿洲國に安住の地を求めるより外に立つ瀬が無いといふ所から必然の勉強をしたからであらう。かやうな事實を見ても外國人に教へるのだから假名遣は發音式にやるがよいたどといふ俗論は眞正面から排斥せねばならぬ。今若し輸出用日本語ともいふべき贋物を作つて彼等に教へておいた時に、彼等が他日、本國に來て、眞の國語を見た時に、彼等は日本語の贋物をつかまされたといふ感と彼等が輕侮せられたといふ恨とを抱くであらう。かやうなことをすれば、國威の發展どころか國威の失墜となることはいふまでも無い。然るにかやうな卑屈な俗論が、政治家や學者や教育家の間に往々唱へられてゐることは私はその恥かしさに堪へぬ。外國人崇拜、外國人に迎合するかやうな徒の跋扈してゐる間は眞正の意味に於いての國威の擧る見込は無いと覺悟せねばならぬ。況んや國語の眞正の統制などは或は前途なほ遠いのかも知れぬ。嘆かはしい事である。


初出
文學第8卷第4號: 335—344. (1940)