世界大戰後わが日本語の世界的進出は實に目ざましいものである。いまや歐米における一流の大學にして、日本語および日本文化の講座を設けてゐないところはほとんどないといつてよい。ことに滿支における日本語普及の急速な状勢はたゞ驚くばかりである。その他フィリッピン群島・オーストラリア諸州・シャム(現時のタイ國)等における日本語熱もまたすこぶる盛である。かやうにわが日本語が世界各方面に進出するに至つたのは、言ふまでもなく、國威の宣揚と民族の發展を象徴するものであつて、國語が國家および民族といかに密接にして、しかも重大な關係を有するかを知るに足るものである。國運の消長と國語の消長とはつねに相伴ふもので、最近の半世紀間における日本語の急激なる世界的進出は、まさにこの間の消息を如實に物語るものといつて差支なからう。まことによろこびに堪へない次第である。
しかるに、一面から見ると、日本語の進出が漸次行づまりつゝあることを見のがしてはならぬ。といふのは世界各方面に日本語が高揚し、これを學んで見ようと志す人が、年々非常な勢で増加して居るが、折角その學習に志しても、大成するに至らずして、廢學するものがすこぶる多い。ある大學で日本語の講座を設け二三十名の學生を得たが、数ヶ月の後に至り、全學生が廢學して一名も踏み止まるものがなかつたといふ事實すらあるので、その成績が概して振はない。しからばかくのごとき結果に立ち至る原因は何かといふと、日本語に確固たる標準がなく、安心して學ぶことが出來ないといふのがその原因の一である。さらにまた日本語そのものがすこぶる複雜であり、文字の組織がまた學ぶに容易でないといふのがその原因の二である。その他學習上の支障をなすものを拾ひあげて見れば、おそらく二三にはとゞまらぬであらう。
外國の人々が日本語を學ばんとする意圖がかならずしも同一でないにしても、新聞を通して現在の日本を知りたいと思ふのは當然なことと思ふ。われ〳〵も英語の學習に志して、リーダーの第二か第三ぐらゐを修めたとき、英字新聞を拾ひ讀みして非常な歡びと誇とを感じたことがあるが、外國の人々が數ケ月熱心に日本語を學んで、日本の日刊新聞に目をうつしても、ほとんど一行すら讀み得ない、一ヶ年の後に至つても、社説のごとき全然讀解することが出來ないので、失望のあまり廢學することになるので、まことに同情の至りに堪へない。英佛獨等においては、基本語彙といふものがおよそと定まつて居て、新聞の記事も大抵その範圍内で作られるから、普通の辭書があれば、記事を讀むのに別に苦しむことがない。ところがわが國には現在のところ基本語彙が定まつて居ないから、勝手に造語して記事が作られるので、われ〳〵日本國民すら意味の不明な新造語が日々記事の上にあらはれて來る。「妥結」「啓開」「傍受」「搗精」等がその一例で、これらの新語はこれまでの國語辭典にはまだ收められて居ない。普通に用ゐられる國語辭典で引くことの出來ない語彙がわが日刊新聞には少くないから、日本語を學ばんとする外國の人々を茫然自失せしめる。かくのごとき日本語の海外進出を促す上から見てまことに歎はしい。
現在わが國では基本語彙が定まつて居ないばかりでなく、基本文型もまた同樣で、人々によつて區々であるから、一通り學んだ日本語の力だけでは、新聞記事の讀めないのはもとより當然であらう。ゆゑにおよその基本語彙や基本文型を一定して、人々が勝手に新しいものを亂造濫用しないやうに、國家が嚴重な統制を加へることが、日本語の健全な發達を促すため、又その海外進出を容易ならしめるため、きはめて急務であると信ずる。
以上のごとく、基本語彙や基本文型が一定して居ないことが日本語をたえず浮動状態に置き、その學習をはなはだしく困難ならしめるのであるが、現時の日本語には、發音・語彙および語法の上に明確な標準がないことが、外國の人々をしてはなはだしく不安の念を抱かせて居る。歐米の人々から見ると、日本語に發音の標準が存在しないことがはなはだ不安であり、そのいづれに從つてよいかに迷ふわけである。たとへば、カとクワを區別する人もあり、區別しない人もあるし、「雨ガ降ル」の「ガ」を ga と發音する人もあり、 nga と發音する人もある。そのいづれに從ふのが正しいかを、相當の地位にある日本人に尋ねても、明確な答が得られない。ことにアクセントになると、人によつて區々で、その據るところに苦しむのである。滿支や歐米の言語で育てられた人々に取つては、アクセントが區々で一定してゐないことが何よりも苦痛であり、不安の念にかられるのであらう。
日本國民には標準語の觀念が十分發達して居ないから、標準語と地方語との差別も不明であり、標準語をかたく維持しようといふ念慮に乏しいところから、外國の人々が日本人に接するに從つて、日本語に對する不安の念がます〳〵増していく、これはまことに奇妙な現象であるといはねばならぬ。
これを要するに、日本語の現状をこのまゝに放任して置ては、折角非常な勢を以て高まりつゝある海外進出の氣勢を頓挫せしめるおそれがある。かくては國家の損失測り知ることの出來ないものであるから、國家が強力な機關を設けて嚴重な統制を加へることが刻下の最大急務であると考へる。フランスの
(昭和十五年二月二十三日大阪信貴山下の假寓において)