国語の受動文について

日本語の受動文の構造は、一言にして言へば、極めて複雑な様相を呈して居ると言つて良い。主要なヨーロッパ諸語の受動文は、勿論比較的の意味からではあるが、これよりは余程論理的な構造を有して居ると考へられる。が、それすらも、かのフェルデイナン・ブルュノ『思想と言語』の中に言つて居る様に、受動態とは

目的辞が主辞となり、そして主動者がその動因を示す補語となる様な様式の文として、目的的な行動のしばしば表現される事

である様な伝統的な定義からは十分に処置しきれない微妙な隅々が残されて居るのだから、この種の定義を規準として、国語の受動態の複雑な構造を説明しようと試みる事ほど、凡そ甚だしい暴挙はないと言つても良いのであらう。

ところで、『日本語歴史的文典』(An Historical Grammar of Japanese. by G. B Sansom. 1928. 一六〇頁)の著者は、国語の受動文の構造について次の如く述べて居る。

英語の受動態は、ある行動を行為者を言はずに叙述する為の純粋に文法的な手続と考へられる。日本語の受動詞(Passive Verbs)は、一方にこの機能を果しつつ、且又さまざまに附加的な意味を持つ事が出来る。

これらは通例の受動態(Ordinary Passive)である。しかし英語では他動詞のみが受動に変化しうるに対し、日本語では全動詞が、それも例外なく接尾辞「る」「らる」を取つて、複合活用を構成する事が出来る。かくて、「死ぬ」の如き自動詞を取つて、文

を構成すれば、これは「母が子の死の為に苦悩する」を意味する。その英語の最も近い翻訳なら、恐らくかうなるだらう。

著者が此処に「通例の受動態」と称するものは、論理式的な辞項の転換――直接目的から主語への――から直接に構成される典型的な受動文を指すのであるが、我々の受動態でこれと、それ以外の、いはば本書の著者における「通例でない受動態」とが相異なつた二個の文法範疇としてヨーロッパ人の心理には反映するといふ事実を、本書の記述は物語つて居る。即ち、前者は彼等の通念における「受動」として、後者はその変態であり、本書の著者によれば、「全く主辞の方の能動性は意味せずに、単に動詞の側の受動性をのみ表現する手段」であるgetやhaveの如き助動詞による表現と同一視すべき構造として見られるのである。此処で、国語の受動文と英語のそれとの比較に関する本書の言説が果して全く妥当であるか否かについては、後に改めて問題としよう。それよりも、今は、唯我々の通念からすればあくまで一個の文法範疇である国語の受動態が、彼等に取つては相異なる二個の文法範疇であり、しかもその一方が他方に比してより通例であるとせられると言ふ一個の興味ある事実に、深く我々の反省を与へたい。この事実はやがて、我々の通念における受動態の構造が英国のそれとは著しくその様相を異にしたものであるといふ問題への理解に、必ずや有益な参考となるべきを思ふのである。

話を具体的に進めよう。そして、我々の発足点を出来得る限り簡単にもする為に、近代国語の平凡な、数個の受動文を例として引かう。それらのささやかな例文に導かれて、そこから限りない我々の言語体験を丹念に汲み上げようとするだけでも、我々の問題は、我々の周囲に、堰を切つた小川の如くとめどもなく奔流し出して来るに相違ない。

近代国語の受動態は、通常、「被動者」は「主格」で――即ち主格助詞か、又は零助詞で――、「原動者」は「補格」で――即ち「に」助詞で――、行為の受動性は助動詞「る」「らる」を動詞の未然形に連接して表現される。

これらはその典型的な構造である。しかしその構造は、かの『日本語歴史的文典』の著者の様に、必ずしも論理式的なものなのではない。何故なら、この文は、又

と、述語は自動詞でも表現される。近代国語においては、この二種の表現は意義上「同義」なのであり、前者の受動態における形式は又後者の能動形式に置換される所よりすれば、この形式は、寧ろかのベイズル・ホール・チエインバレン氏の『日本俗語小文典』と共に、あるいはこれを「擬装の受動」(Passive in disguise)と称すべきこそ正しいのかも知れない。此処に、「嵐に」「雲に」の「に」は未だ奪格的と言はんより、我等の意識には多く地格的であり、「嵐」「雲」における、主動者としての行為の積極性が其処に感ぜられないばかりでなく、又助詞「に」は、被動者「松」「月」において体験せられた「吹き折らる」「隠さる」なる事態の単なる原点を、唯静的に指示して居るに過ぎないのである。従つて又その行為の受動性は、「擬装の受動」であり、その主動者に関して――由つてではなく――与へられ、しかもその主格(被動者)の限りにおいて体験せられた一種の変態的な自動性に過ぎず、その主格(被動者)は原動者の行為の直接目的たる事を要しない。

かかる構造では、「枝を吹き折る」なる行為に関して、「松」は被動者、「嵐」は原動者であるが、「松」はその原動者における行為の直接目的ではない。

さて、唯次の如き構造の受動態のみ、前例の如く、「折れる」と述語を自動性に代置する事が出来ない。

近代国語のかかる構造は、常に助詞「に」に導かれる原動者の観念が生物である場合に限られるので、かかる場合にのみ、原動者の行為の意志的な主動性と、従つてその被動者における体験の受動的な感情価値とが明確に意識されるのである。「人に叱られる」「母にほめられる」――等類似の構造で、折々助詞「に」の「から」に置換され得る事実――「人から叱られる」「母からほめられる」――等は、その原動者の観念についてすでに奪格的な意識の分化を物語る資料であるが、そのやや詳細な説明は、国語の受動態の歴史的な展開をあとづけようとする後章の解説に譲らう。

又、この「擬装の受動」は、さまざまな相貌で、あらゆる受動表現の形式に現はれる。

主語の何たるかは、此処には問はない。ともかくも「揺られる」は主語の関する事態であり、「電車に」はその事態の主動的な原拠を示して居る。この構造では、「電車に」は「電車で」で置換されるが、述語は自動詞「揺れる」で置換する事は慣習的でない。「電車に揺られる」――何によつて?――電車によつて――ではない。「揺られる」なる事態の受動性パシヴイテート――自動性イントランンヴイテートではない――の意識は此処では明確であるけれど、しかも「電車に」の助詞「に」は、単純な地格の意識を去る幾何でもない。従つて、「揺られる」なる行為の積極的な原拠として考へられる主動者の観念は、必ずしもその地格的な「電車」の観念に一致するとは限らない。「揺られる」――しかし「電車が揺る」のではない。「電車が人を揺る」――の如き言語構造を直接に裏づけうる能動的な思惟の形式を、我々の慣習は知らないのであり、非人格的な観念が、伝統的な文に、他動詞の主語として立つ事は慣習的ではないのだからである。そして、この受動態における原動者――その行為の強制者の意識は別に存する。即ち一個の汎称的な観念であり、絶対者としての意識である。「揺られる」といふ事態は、唯我々の恣意を越えた、抗し難い現実として、「電車に」おいて体験される。その体験の中に甘んじて身をまかす事は、我々にとつては全く不可避的な事態として考へられて居るのである。いはばかのエルガティーヴム〈ergativum〔能格性〕〉である。

自動詞の所謂受動形式が、この問題との関連において、此処に問題とされなければならない。

何故なら、この構造においても、亦子の「死ぬ」といふ事実は主格――(「母」)――にとつてさけ難い一個の厳粛なエルガティーヴムであり、「子」はむしろその主動者と言ふよりも、この事態の関する、静的な、単なる原拠を示すものと理解する事が出来るからである。『日本語歴史的文典』の著者は、所謂自動詞の受動態について、「母子に死なる」は「母が子の死に悩む」(the mother suffers the death of the child.)を意味すると述べて居る。が、それは恐らく、このエルガティーヴムの観念を通じて自ら滲出する深い感情価値が、窮極的に、さうした語で翻訳する事の出来る様な論理的な意義として解釈されたと考へる事が正しいであらう。又、自動詞の受動態は、著者の言語意識におけるほど、我々の言語意識にはさして珍らしい姿態なのではない。むしろ、他動詞を含む能動文から純粋に論理的な手続で構成される受動態の何処か身につかない正硬感等と比べて、はるかに平凡で、又それだけになつかしい存在である。他動詞の受動態の、それが単なる論理的意味をしか表はさない場合には、我々の近代国語は――古代国語におけると同様に――より通例に主語を反転した能動態を用ゐてそれをあらはす(この点は後に述べる如く、国語の特性をして文中における主語の転換が自由なので、前後の文脈上の関連から主語を統一する必要がなく、従つて動詞は常に多く能動のままに表はれる)けれど、自動詞の受動態こそ、特に近代国語にあつては、このエルガティーヴムの観念をあらはす唯一の選ばれた表現形式であり、この形態をはなれて、我々はその微妙な感情価値を表現する方法を知らないのである。

かくて、近代国語の受動文が多く「擬装の受動」であり、その形式の所謂エルガティーヴムの表現である事の多い事実は明らかである。尤もすべての近代語における受動文の性格がさうであると言ふのではなくても、少くともその形式は又多くそれだけに微妙な感情価値を伝へる事をその目的として居るのである。

の相違は、論理的な意味から言へば、恐らくかの「最小の意味ミニマレル・ベドイトウング」に類するものに過ぎないであらうが、感情価値の複雑さからは、後者がその単なる事象の表出であるに対して、前者には「松」に対する哀愍の感情や、その所有者におけるいたましい歎息の響や、「暴風」への憤懣や、失望感や………さうした錯雑した感情の渦が、その表現を取巻いて、影絵の様に動くのが感ぜられるのである。

かうした二三の例文を通じて見て、すでに近代国語の受動文の、その特質とも称すべきものに関する重要ないくつかの示唆を求める事が出来るのであつた。ところで、前にも述べた様に、この考察の目的は、我々の、問題にわけ入る為のささやかな一個の足場をつくる事にあつた。この記述的な事例を一々刻明に述べたてようとする事がその窮極の目的であるのではない。今はこの記述的な考察から一転して、これら近代国語の重要な受動文の特質が、唯我々の言語にのみ存する、新しい近代語の表現形態なのか、それとも更に、日本語の受動文の遙かに発生的な属性の一つであつたのかを明らかにする事こそ、又与へられた我々の課題であると言はなければならないであらう。

古代国語の受動表現の概況については、項を新にして後に述べよう。が、ともかくその最も通例な形式が、助動詞「や」「らゆ」「る」「らる」の使用によるものであつたと言ふ事に疑ふ余地はない。尤もその使用頻度は極めて低い。たとへば『萬葉集』の一二の両巻二三四首の和歌中にこの種の受動表現の存在はただの一個も発見し得ないのであり、記紀の歌謡中、これ又、「伊喩之々乎都那遇舸播杯能」(射ゆ鹿をつなぐ河辺の)(斉明紀)の如き特殊な形態を除けば、その完全に受動表示の助動詞と見るべきそれらの語例を発見する事は出来ないのである。しかし、奈良時代の中期に、受動詞の表示たるべきそれらの助動詞の形態がすでに完全な成立を告げて居たと考へられる事は、文献上の徴証を以てして、全くその疑念をさしはさむべき余地はない。記紀の「所焼」の如き一類の字面等が、常に、記伝の如く、果して「ヤカエテ」と訓まるべきであるか否かは速断は許されないとしても、かの「か行けば人に伊等波延(イトハエ)、かく行けば人に邇久麻延(ニクマエ)」(五804 神亀五年)、「もろこしの遠き境に都加播佐礼(ツカハサレ)まかりいませ」(五894 天平五年)の如き、少数の、しかも確実な語例では、その受動表示における意識の、すでに近代語における我々の言語意識に多くその差異を認めえないまでに発達して居たといふ事実が明瞭に物語られて居ると考へて良い様である。――唯、それらの使用頻度の著しく低いといふ事実は、当時の言語において、受動形による意味の表現が未だ十分に慣例的なのでなく、その表現形式も亦未だその生成の比較的に初期の段階に存したと、合理的に理会する事が正しいであらう。

ところで、これらの助動詞の、本来的な――更に宿命的なとも言ふべき性格の一斑について我々の筆を進めようとする為には、やはりこれらの語の最初の生成に関する概観的な考の結果を述べて置かなければならない。

さて、「ゆ」「らゆ」の、又「る」「らる」の起原についても、更にその二系の語の相互的な関連への仮定を設けようとする立場の上にも、さまざまな異説がある。しかもたとへば、かうした世界の中にも、やはり先史的なものへの憧憬が表はれて居た。その美しい、幻想的な、大きなスケールの中で、これらの語と他の独立的な動詞語彙――チェンバレン・アストン・金沢氏等における「有り」や「得」――との遙かな血縁が跡付けられようとした事のあつたりしたのも、現在の実証的な国語史学の立場からすれば、さして強力な礎石の上に建てられた不動の学説といふのではなかつた。けれども、此処では、それらの幻想的な主張に対して、直接に批評の筆を挿まうとは考へない。唯少くとも我々の出発点を、この考察では、もつと実証的な立場の上に置きたいと思ふ。

かうした種類の「ゆ」が、助動詞「ゆ」の直接の血縁者であつたらしいといふ事実、それが、近代語への同様な発達の足跡を残して来なかつたといふだけで、「見ゆ」や「煮ゆ」等と同様の構造に過ぎなかつたといふ事実には、殆ど何の疑もない。しかしこれらの「ゆ」が古代語の民衆意識の中にも、尚厳密に言つて、どの程度にまで助動詞的な形態感を発達させて居たかと云ふ問題となると、それほど事情は簡単なのではない。成程『萬葉集』の「所射鹿認河辺若草之」(十六3874)の初句が「イユシシノ」と訓まるべき事に何らの疑念はないのであり、又集中多数の「所見」等の字面が「ミユ」と訓まるべき事論を俟たないとしても、これを以て、「ゆ」の形態感が直ちに助動詞的な分離性を「射」「見」等の語基に対して感ぜしめて居たと想像する事は速断である。「所」がその語の形態感における受動性を表示して居る場合は多いけれど、この一個の漢字の存在が、常にその語の形態質の語基への助動詞的な形態意識の発達を表示して居ると言ふのでない事は、例へば「所焼」(ヤケ)「所湿」(ヌレ)の如き用字法の存在からも容易に想像する事が出来るのである。即ちそれらは類語的な意識を有する対比的な他動詞「焼き」「湿らし」との比較を通じて感ぜられる自動性(もしくは微弱な受動性)の意味の表示に過ぎなかつたのであらう。そして又、これらが、更に「燃ゆ」「消ゆ」「老ゆ」「冴ゆ」「絶ゆ」の如き上、下二段の自動詞群に有勢な一連の語尾と汎く血縁を結ぶ語であつたらしいといふ事実が、それらのヤ行語尾がすべて自動詞語尾であり、又すべて上、下二段の語尾(即ち下二段は助動詞の場合と同一の活用であり、四段活用はない。又上二段活用は、此処には考察外の問題ではあるが、四段・下二段の活用に比して極めて有勢なオ列語幹の存在を有するといふ事情其他から推して、語幹への母音調和から来る音性の変化が語尾にあらはれた下二段系の変則的な形態であつたかも知れないと推量される。この問題については、将来を期して、又稿を改めなければならない)に限られて居たといふ事実からは、その先史的な可能性への一条のほのかな光明を投げかけられる事になるかも知れない。ともかくもこれらの語尾や助動詞は、我々の文献の限において、恐らく先史的な、一連の形態質であつたのであらう。そして、それらの中、何れの一方がより起原的な形態であつたかといふ問題については、常識的に、その助動詞的な――即ち、語基からの独立性がそれだけに明瞭な形態がより古形なのであり、その「使ひぶるし」による膠着の結果が一連の自動詞語尾の形態であると考へる事も出来るであらう。が又、それと少くとも同程度の可能性を以て、自動詞語尾の如き形態がより本来的であり、その強度の形態意識が遂に助動詞としての一個のモルフェームを分析し出したのが前者であると考へる事の可能な事は一応注意しておかなければなるまい。少くとも、一般の動詞語尾が、その遠い先史的な言語構成の日以来、すべて独立的な一音節の単語の膠着から次第に変化して来たと考へるモザイック風な言語構造観に立つ事を正当視し得ない我々の立場に取つては、特にそれらヤ行動詞の語尾のみが、それと同音形の助動詞に比してより近代的な形態に属すると想像すべき特別の何らかの理由があるわけではない。又「見ゆ」「思ほゆ」等の形態は、「燃ゆ」「消ゆ」「老ゆ」等に比して語尾の遊離性は高く、それだけ助動詞的であり、すでに一定の他動詞的な表象が語幹の中に感ぜられて居るのであるが、尚その他動詞的な表象から、語尾における受動性の意識が完全に分化するまでに達しては居ない。「思ほゆ」といふ形態は「思ほ・ゆ」と分離せられるが、「思は・る」における程にその分離性が強度なのではない。「(他動詞)・(受身の助動詞)」の構造では、その他動詞の完全な自立性が当然その上に目的語の存在を許す事がある。

「――を見・られる」は「――を絶た・れる」と同様に正当な構文であるが、「――を見ゆ」は「――を絶ゆ」と同様に、全く慣習的なものの裏付を失つた構文である。尤も、

の如き特殊な構文が、

等とともに主として中古の文献類に散見すると言ふ事実を、全く無視しようとするのではない。しかしこれらは、文献上の総頻出数の上から言つても、要するに少数の特殊な構文の場合に過ぎない。勿論特殊なものの世界には、特殊なものとしての論理とその必然性とがある。けれどこれらの少数の場合の特異性から、同様に多数の正常的な構文の場合を律しようと考へる事は、たしかに論理学上の誤謬があると言ふべきであり、それにこの形式の、前述の如く中古(又はそれ以後の擬古的な構文)の文献に多い所からすれば、むしろヤ行自動詞の発育史上におけるある時期の偶発的な一種の「彷徨変異」であつたと理会する事が正当であらう。唯、当時における「見ゆ」「絶ゆ」等ヤ行自動詞の形態質が、何程かその語基への分離意識を高度に保たうとする傾向にあつたといふ事実だけが、いはばそれら特殊な構文の裏付として、我々が得る事の出来る唯一の収獲なのであつた。

要するに、助動詞「ゆ」の起原的な生成の問題に関しては、この小稿において、何らの具体的な事実についてもこれ以上述べる事は出来ない。唯もう一つ、助動詞「る」「らる」との発生的な関連の問題について、更に蕪雑な数言を費す事が必要なのである。

今度は叙述の煩雑をおそれて、結論だけを簡単な箇条書に整理しよう。

かくして助動詞「ゆ」「らゆ」「る」「らる」の古代語における性格が本来的にはかかる自動的な形態質に過ぎなかつたと考へられる可能性は高いのである。だからその起原的な意識について見れば、それは語基を通じて表象される事象――他動詞的であると自動詞的であるとにかかはらず――への自己における体験的な干与を示す語法であつたであらう。「に」助詞について表示される補語は、恐らくその静的な、事象の発生的な規準を示す形態であつた。言ふまでもなく、「弓月が獄雲立ち渡る」等、「に」助詞の一般的な用法は凡そかの奪格的なものとは別であつた。古代語においてそれらがすでに奪格的な意識を随伴して居たとすれば、恐らくその表現の形式は又別個の異なる形態を用ゐてなされたであらう。

今まで述べ来つた所を簡単に要約して見よう。――国語における受動表現について、まづ助動詞「ゆ」「らゆ」「る」「らる」では、発生的には「る」「らる」は「ゆ」「らゆ」に比して新しく、その間に直接の音韻変化による連関を考へようとする通説には確実性がないが、本来的にその何れもは自動的な――即ち厳密に受動的でなく――意味を表はす形態質に過ぎなかつたと考へられる。そして、この場合原動者を示す補語における「に」はやはり本来的には単なるその行為の行はれるべき場所もしくは規準を示す助詞に過ぎなかつた。この事は近代語においても十分認証されうる事であり、「電車に揺られる」における「に」は明らかにそれである。「電車に」は「揺る」といふ行為の原動者としてより、その行為の行はるべき地点の標示であり、「れる」はさればこそ一種の所謂エルガティーヴムである。それは「電車で揺られる」とも言へる。「子供に折られる」の如き発達した受動表現で「に」が比較的明瞭な原動者を示す――これは近代語で「子供で折られる」といふ事は慣習的でない――場合に比して一般に本来的な表現の性格を継承するものと考へて良い様である。本稿の最初の項下に述べた様に、「子供に折られる」「風に折られる」の二個の対比に見るならば、その行為の行はるべき規準者が「生あるもの」の場合において、近代語には明確に受動表現を発達させ来つたものと考へられるのである――。

尚、此処で若干の補足的説明は必要であらう。まつ助詞「に」が、前述の如く、本来的にはその奪格的な意味を表はすものでなかつたといふ事には説明の要はないであらう。それが奪格的な用法に立つ場合こそむしろその説明を要すべき除外例であり、古来の日本語の表現において極めて特殊な場合なのであるから。

所で、所謂受身の助動詞「ゆ」「らゆ」「る」「らる」については、事情はかなり複雑であり、簡単な前項の説明には尚多少の補註を加へなければならないかも知れない。所謂受身の助動詞の先史的な形態が何であつたかは今は直接に問ふ所ではない。唯それが文献の証する限りにおいては、古く一連の自動詞語尾として共通な一個の形態質であつたらしいといふ事だけはほぼ前述の通りである。しかしその最初に助動詞として用ゐられた日に、それが少くとも三種の意味に――尤もそれは近代の文法家の合理的な眼によつてであるが――区別されて居るといふ事実には注意して置かう。

未だ待遇表現に「る」「らる」の用ゐられる事は当時にはない。この三種の用法にはそれぞれ用例がある(但し「らる」は用例が極めてとぼしい)。又自ら其処に若干の使用上の偏向等も見られるが、文献をパンタグラフによる現実言語の縮小図の様に考へない以上、その偏向が即ち当時の生活言語における偏向性の反映であると考へる事には余程の慎重な留意が必要である事から、此処にはその収穫の多くを予期する事の出来ない統計上の数値を掲げる事はさし控へて置く。そして、唯、可能、自然可能(可能とよばれる用例は比較的に文献上は少数である。佐伯梅友氏「萬葉集品詞概説」(『萬葉集講座』3、春陽堂)には「目には見て手には不所取」が引かれて居る)といはれる一連の用法が、種々の点から受身の用法に比して我々の注目に値すべき存在である事実を、一つ強調して置く事に止めよう。

所謂自然可能と受身とは、その基底において共通性を有する二個の心理現象である事は考へられる。しかし単にかかる心理上の問題は言語学上の必然性を規定するものではない。それは言語表現の世界にとつては、その表現形式に対する単なる「可能性」を参考として提出するにとどまるものなのである。所で此処にはその二個の心理現象が明らかに一個の助動詞による表現によつて言語化された古代国語の性格を我々は見る事が出来るのである。それは少くともこの二個の心理現象が一個の現実的な意識の中に統轄されて居た事を示す。いはばそれらは不可分な一個の心理現象として古代人達の生活の中で意識されて居た事を示すといふ事に注意しなければならない。そして、ついで発生的にその受身の用法は恐らく自然可能の用法によつて先立たれるのであらうといふ推定の成立つらしい事は、殊更に此処で大切な問題として考へて置かなければならない。

問題を簡単に扱ふ為に、同様に上一段活用の他動詞である「射る」「見る」「煮る」三語とそれぞれ対比的に考へられる、同一構造の「射ゆ」「見ゆ」「煮ゆ」三語の対照から叙述を進めよう。このうち「射ゆ」は前掲の特殊な例であるが、ともかく比較的明瞭な受動意識をその中に表現して居る事はまづ異論がない。「煮ゆ」は他の多数のヤ行下二段動詞と共に完全な自動詞である。さて「見ゆ」はどうか。

これらは一種の自然可能と言える。後者において「見ゆ」の主辞が「島」である様に、前者においては「かづく鳥」である。しかし同時に看過する事の許されないのは、前者において、「見ゆ」といふ述辞がその規準者として「我」――此処では、我が「眼」――を要求して居ると言ふ事である。「見ゆ」といふ述辞は主辞たる「かづく鳥」に直接の連関を有する一方において、その行為は又我との連関において主体化されて居るといふ事である。

といふ表現は、日本語には、

と言ふ表現とは一応の分界線を引く事が出来る。これは又、慣習的に言へば、

の対比において、前者には、この紙は貴重な書類で君にとつては焼くに忍びなからうが云々の意味において、「可能」相の表現であり、後者は純粋の自動詞たるを免れない。この相違については、即ち前者の「私には」であり、後者の「火には」である事実を、前掲の「風に折られる」「子供に折られる」の対比等をも参考として、我々は注意しなければならないであらう。要言すれば、「焼ける」といふ一個の行為の規準者が一方には「生あるもの」、他方には「生なきもの」であつたといふ事実、そしてその前者においては、その行為の意識が「生あるもの」の表象の中に主体化され、可能相を示し、又受動相を示して居たといふ事実を。

「見ゆ」といふ語も亦この意味において一種の可能相の表現であつた事は考へられよう。しかも又その、後に前掲の

や、

等の特殊構文アナコルシア(これらが本来的にある種の受動相、可能相の表現と共通の心理によつて用ゐられた事は、『萬葉集』の用字法から察せられる。即ちそれらは多く上原浩一君の所謂「上置字」(『国語・国文』第七巻第八号)の「所」によつて表はされる。その中、特に目的語を有する構文の中で、「春の野にあさる鴙の妻恋ひに己があたりを人爾令知管(人に知れつつ)」(八1446)の如き若干の用字にすでにその受動、使動意識の混乱が察知せられるのであるが、この事情は又一方「吾爾勿所見なぎのアツ物」(十六3829)(附点の三字ミセソ、ミエソ何れに読むとしても)の如き用字の存在と共にその一連の意識における産物として説明する事が許されるであらう。又、近代語の意識では、「人に知れる」等は明らかに受動表現の一種である)を産出する事と比較して、大体ラ行下二段の自動詞語尾から所謂受身の助動詞の発生に至る一連の径路を想像する事は出来ないであらうか。

最後に、以上述べ来つた個々の断片的な論考を、結論としてもう少し系統的な形式の中に要約しようと、私ははじめには思つて居ないではなかつた。唯、今は、その為に更に数頁の余分の頁数を独占すべき事を恐れて、次の事実の論証がこの論考の中に説くべき目的であつた事を一言附加へて置くにとどめようと思ふ。即ち、国語における受動表現は、古代においてはむしろ多く自動性、又は自然可能の表現より発達したと考えられる事が多く、近代語においてさへ純粋の受動形式に非ざるものは未だ多いと言ふ事を。叙述に十分に意を尽さなかつた点が多い。殊にその受動文の各種の形式等については、殊にその詳細な解説の方法を取らなかつた。尚他に触るべくして触れ得なかつた点もある。大方の御寛恕を得る事が出来れば幸である。


初出
『国語・国文』第12巻第11号(昭和17年11月)、第12巻第12号(昭和17年12月)、第13巻第6号(昭和18年6月)
底本
『朝山信彌国語学論集』(pp.64—82.)