時枝誠記著・國語學史

昭和十五年の師走も文字通り押迫つて、我々の學界は誠に思ひがけない二つの好著を得た。一は有坂秀世氏の「音韻論」、一は本著であり、とりどりに忘れ難い收穫であつた。

菊判、二六七頁、總黒布裝。始めに橋本博士の序、次に著者の自序があるが、その中で、「國語學の新體系は、古い國語研究に現はれた學説理論を克服展開させる所に建設せられると信ずる私に取つては、過去の國語研究史を顧みることは、即ち國語學の一の方法論の實踐に他ならないのである。從つて私は、この研究史を、日本思想史の一部として書くのでもなければ、又日本文化史の一部として書くのでもない、新しい國語學を培ふ無盡の泉として書かうとするのである。」と述べられてゐる記事を、何はさておいて我々は見落してはならない。國語學史が直ちに日本思想史や日本文化史の一部として著述さるべきであるか否かといふ問題については、一應思慮のある國語學者なら誰しも確信を以てその肯定を留保するであらうが、その學史の著述が「國語學の一方法論の實踐に他ならない。」とすばらしく斷言出來る國語學者が、現在本書の著者以外に幾人あるであらう。文獻時代以降に限つてもすでに千數百年にわたる我々の民族精神が、歴史の中で、素朴ながら國語に對して作りあげて來た肉親としての自覺と理解とに國語究明の足場を見出すほど、正しい、しかも美しい方法論が他にあらうか。方法論は常に強制されたものであつてはならならない。血液と共に肉體の底から沸出るものでなければならないと、時枝氏と共に、私達は常に考へて居たのである。著者が別にパウルの有名な類推法やフランコ・スイス派の言語觀、目的論的言語觀等について簡單に一矢を酬いられた上、――但し著者も承認して居られるらしい小林氏の目的論に對する譬喩(二一頁)の妥當性については、此處では別問題として留保して置く。――我が民族古來の所謂「事としての言語觀」について「性急な對象化を強制されなかつた國語學者が言語經驗それ自身に即して言語を對象化さうとした事は、國語學にとつては寧ろ幸福な事ではなかつたかと思ふ。」二六頁)と述べられる立場も、この意味から我我には十分によく理解する事が出來る。

著者は又本書編述の態度としては、その國語觀(「國語とは日本語的性格を持つた言語を意味する。」「日本語的性格といふことは國語學の窮極に於て見出されるものであつて、」國語學は「最初に與へられた不明瞭な輪廓を持つた對象を明確に規定して行かうとする」のであり、その方法は「恐らく一切の文化科學の對象について通じていはれる」とされる斬新なもの。しかし日本語を音樂に喩へられる事には疑義がある。前者は固有名詞的なもので、寧ろある特定の樂曲と比較して論ぜらるべきものである。)や國語學と國語學史との關係に對する見解と共に、別に序説中に設けられた一章があり、「要するにそれを一の歴史として見る事」であり、「妄にこれに對して價値判斷を下さないと言ふ態度」であり、「過去の學史のありのままの變遷を辿ることによつて、そこから無限の問題を汲み取らうとする事」であると著者は述べられる。又、國語學史は第一に學術史であるが、第二に「國語現象の發見の歴史であり、國語に對する意識の展開史である」ともされるのは、著者の立場上當然の歸結であるとは言へ、從來の國語史家において全く見られなかつた本著書の達見であり、我々の賛意措く能はない所である。第一部序説には更に「國語學史の時代區劃と各期の概觀」なる章があり、第二部研究史の本論へつづく。第二部の敍述は、著者自身の言(二一頁)もある樣に、事實の網羅を主とする精密な敍述をその目的とするのではなく、「國語學の史的變遷の大要を描く事に努め」たものであるから、讀者は國語研究史の綿密なクロノロヂーのつもりで讀む事は勿論許されない。

本論の體裁は、第一期元祿以前、第二期元祿――明和・安永時代、第三期明和・安永――江戸末期、第四期江戸末期、第五期明治以後となり、それぞれ四十五頁・二十頁・八十二頁・十三頁・二十二頁があてられて居る。第一期の頁數の相當に多いのは、前科學時代の素朴な言語意識を尊重する著者の立場に取つて尤な事であらう。

さて本書の各期の敍述について型の如く此處で數行に要約するのは殆ど無意味な事であらう。何故なら各期の概觀についてはすでに序説五章において著者自らの敍述される所であり、それ以上の壓縮は、かかる著述では、行間に溢れる著者の息吹を徒に「事實」の後に排除するに終る危險が多分に豫想されるからである。著者を愛し、國語を愛する讀者は親しく本書を披讀されたい。唯その參考までに、許された後三枚の原稿用紙を利用してスクラツプめいたものを書きつけ置く。

第一期は、いはば前科學時代における素朴な日本民族の言語意識を諸種の資料(初期の古典註釋類、歌學、連歌の作法書、悉曇書など)によつて理會しようとしたもの。例へば仙覺抄等の註釋上の用語、その用法によつて、「單語についての明確な概念や、分類の基準に就いての確乎たる標準が見出され難いのであるが、ともかく、かくの如くして語の摘出と、その範疇的分類が試みられたことは注意すべきである。」と考へられる如き。五〇頁にも類似の敍述があるが、これらは從來の國語學史の規範的な見解をはなれた妥當な推論法である。(但し著者のこの見解そのものは、果して著者の如く仙覺にあつて「語の意識が極めて朧氣であ」つたか否かは明らかでない。更に古くからの諸種の字書類では、概して嚴密に單語的形態が見出語、訓註等で用ゐられて居るから、他の民族でもしばしば報告されて居る樣に、その素朴な單語意識は恐らく上古から存したであらうと考へたい。)定家假名遣の規準に關する契沖との比較は注意せられる。宣命書の起原に關する見解(七五頁)等も異説は豫想されるものの興見深いが、その訓點形式との先後如何に拘らず「語性の研究の上から特に區別をしたのではな」く、「只ここに存して彼に無きものとしてのみ意識せられたに過ぎない。」と言ふ事に變りはあるまい。因に言ふ。第一期における言語意識の理會の爲には更に和歌等における文學的技巧の背後がもつと考へられて良くはなからうか。例へば掛詞、縁語の背後に存するホモニムヘの異常な意識等は、所謂借訓を通じて奈良時代以來のものだが、初期の註釋や語源論等と種々な交捗を有するものと考へられる。參議伊衡と躬恒との問答にこんな歌がある。(拾遺集、躬恒集)――又とふ。しろたへの白き月をも紅の色をもなどかあかしといふらむ。こたふ。昔より言ひし來れることなれば我らはいかに今はさだめむ。――何か問題にできさうな問答だと思ふので書きつけて置く。

許された行數は更に幾何もない。第二期は宣長以前の國學の振興期における古代精神闡明の爲の國語研究時代とされる。第三項語義の研究における本義正義の問題等は誠に興味が深い。第三期は蓋し本書の眼目とする所らしいが、著者によれば「中古の言語の研究が要求される樣になつた時代」であり、上代文獻の理解の爲に必要な「解釋の爲の語學的研究」と相並んで、「中古の言語が歌文制作の規範と考へられた爲に、主として表現を目標とした語學研究」を必要とした時代であつた。宣長によつて大成せられ、成章、春庭、朖、義門等により繼承された時代。「(上代)用字法研究の展開」以下「中古語法の研究と上代文獻學との交渉」まで全部八章。これに今その紹介の遑を與へられなかつた第四期(「語の分類の研究」以下「和蘭語研究と國語に對する新考察」の四章)と第五期(「國語國字改良の諸問題」以下「言語學の輸入と國語研児上の諸問題」の六章)を加へ、尚卷末に著者著述目録と現代國語學主要書目の二表がある。索引はない。

最後に、本著を通讀して感ぜられるのは、古今の稀書を渉獵して誌された驚くべき敍述の博學さでも、小氣味よい新説の續出するすばらしさでもない。我々の國語學の生立ちの跡を肉親の愛情を以てみつめて居る人の和やかな、喜悦にみちた精神である。

劃期的な國語學史として江湖の人々に贈りたい。〔菊判二六七頁・定價貳圓參拾錢・東京岩波書店發行〕


初出
『國語・國文』11(3): 96—99 (1941)