詠題掌編

『有夫恋』

I

夫の本社栄転を機に新居を構へて、夫妻は高級住宅地と看做される辺りに移り住むことになりました。二人は、見合(これを西洋人は「理性による結婚」と呼ぶさうです)に知合つて結ばれ已う十数年になります。その間お互にこれといつた不満もなくて、先づ充ち足りた仕合せな日々を送つてきたのです。

II

或日婦人は近くに瀟洒な、品の佳いちひさな教会のあるのに気づきました。何でもそこには紅毛碧眼の牧師がゐるといふ話を、何処からともなく聞きつけてきて多少物見高いところの有る婦人は洋装してその小教会を訪ねてみたのでした。

坊様の説教もありがたやの春の午後、折悪しくも婦人はなにやらの祭儀の場に闖入して了つたやうで、講壇上の異人は咎めるやうの目附きで婦人のはうを見遣りました。その視線に、婦人は慌てゝ拝聴の群衆に紛れ込みましたが何故か、ほろりと頬に玉の涙が零れました。胸の裡には逢はざること久しいときめきを覚えるやうでした。

III

それから婦人はその小教会に通ひ詰るやうになりました。先のと胸の高鳴を種に彼の人への思慕はすくすくと育つて、何時しかそれは自分にもはつきりと恋心と分るものとなつてをりました。勿論その人の説く御教へは耳に這入つてなぞをりません。唯恋しい人の姿を見凝めてよくよく思へば特に好いたらしい訳でもない単に成行の侭に思はぬ人と一緒になつてゐる今の吾身の境遇にそつと脣を噛締めて、もし、彼の人と二人相添ふことが出来たなら、それは夫有る今の自分には姦通であるのは固より承知その所為で縦令地獄に堕ちるとも悔ひはしない、それはどんなにか嬉しい罪だらう、とさう念じて異人を仰望するのでした。

IV

機会は存外と早くやつてまゐりました。著物に身を鎧つた婦人と沈鬱なる、暗澹たる僧衣を纏つた異人の牧師と二人切りで、柔かな光の篭もる礼拝堂に佇立して相対してをりました。

「もう怺へ切れません」つと、婦人が口を開きました。「何うか此の身を哀れと思召し、……」

V

婦人は著物の裾を乱して白い内腿を露にして異人の陰茎を迎へ入れました。相手の青い眸子、白皙の顔からは何も窺ふことは出来なくて何時かしら洋行帰りの夫が「あつちの人間は膚の色素が薄いから、青くなつたり赤くなつたり直ぐに気持が顔に出る、分り易いもんだ」と云つてゐたのを嘘と思ひ知りました。

けれどそれは本当は何うでもよかつたので、と云ふのも婦人には是迄内に溜込んできた思ひを解き放つ契機として適当な異人の行動さへあれば足りたことではあつたのです。さうして婦人が快楽を愬へようとしたその時に、ずつと口を緘してゐた牧師が突然に呶鳴りました。

「エロスに溶込んではいけない!」それから諭すやうに、「あなたが個我に眼醒めて世俗の家族共同体の覊絆から遁れ、この教会に救ひを求めたのは義とせらる可き行ひです。そして、その自律せる個我を以て行住坐臥、絶対者である神と対峙してをらねばいけません。

「かうして性交する事自体を私は咎めだて致しません。けれど、どんな時にも吾吾は神と直面してをらねばならぬのです。我を忘れて恍惚としてはいけない。

「絶対神と常に真正面から相対してゐるのは実に辛い、恐ろしい。おそれとをののきとが絶えません。ゼエレン・オォビュエ・キェルケゴオルといふ誠実な弱虫は不安に苛まれて、この有り様を譬へて『死に至る病』と申しました。

「だからこそエロスを通じた一体感の裡に個我を埋没させて了つてはいけない」

VI

「あなたがたの心はとても邪悪です」と牧師の瞳も素敵な五月   穂村弘